カルロ5世の謎@ドン・カルロ
予告通り『ドン・カルロ』におけるカルロ5世について書いてみます。とはいっても腑に落ちる解釈は出来ていませんので、現時点の関連事項の覚書といったところです。この演目に関しては今後も縁がありそうなんで、現時点の思考を整理しておいて、次の機会に再考したいと思ってます。
ところでカルロ5世なのかカール5世なのかどっちでしょうかね。ドン・カルロ文脈のときは、統一してカルロ5世と書くべきという気もしますが、カール5世の方がしっくり来るんですよね、この人物に関しては。最初にカール5世の名で知ったという第一印象の問題かもしれませんが。というわけで参照してみましょう。
wikipedia:カール5世_(神聖ローマ皇帝)
カール5世(Karl V, 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、ハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国皇帝(在位:1519年 - 1556年)。スペイン王としてはカルロス1世(Carlos I, 在位:1516年 - 1556年)と呼ばれる。
違和感の源が分かりました。ドイツ語読みかスペイン語(カルロス)orイタリア語(カルロ)読みかの問題だけじゃなかったんですね。いやー勉強になるなあ。大体この人をカルロ(ス)5世と呼んだらカルロ(ス)2世の立場が無くなるし。ついでなのでカルロ(ス)2世に関してはこちらをどうぞ。ドン・カルロに臨む際には私はこの2世のイメージが頭から離れないんです。是非まんまる丸顔のおデブちゃん、2世とはかけ離れた外見の方に演じて頂きたいものです。
というわけで、以下カールで、孫の方はカルロで。オペラ経由の読者はカルロ5世の方が馴染みがあるでしょうから、タイトルはカルロ5世のままにしときます。
では本編行ってみましょう。まずライブ鑑賞以前の予習時のことを思い出してみます。
http://d.hatena.ne.jp/starboard/20090906
最初の序曲?序曲ちゃう。カルロ5世のテーマ?これ何を意味してるんだろう。素人評論家が「これからはじまる悲劇を予兆させるような重々しい旋律が・・・・」と書き出しそうな雰囲気。カルロ5世ってこの作品にとって何なんだ?
(中略)
ねえ。ラストと合わせて考えると、不思議じゃないですか。カルロ5世って、この作品にとって何なんでしょうね?keyakiさんからのコメント
>カルロ5世って、この作品にとって何なんでしょうね?
デウス・マキナってやつみたいです。
次にランケを思い出しつつ、スペインの皇太子ドン・カルロとカール5世の関係をおさらいしておきましょう。
ランケ『ドン・カルロス−史料批判と歴史叙述−』覚書
http://d.hatena.ne.jp/starboard/20090929
- 成長するうちにカルロスには、当時の人が「大胆にして残忍」と呼んだ気質が表れた。同時に、この気質は彼の祖父と共通だと噂された。
- 彼の祖父は神聖ローマ帝国王にしてカール果敢王の名を持ったカール5世であった。カルロスの名はこの祖父から採られた。カルロスは祖父に特別な親近感を抱いていた。少年期に祖父が訪問した際に祖父の武勇伝の数々を聞き、武名と世界の脚光を浴びる輝かしい生活に対する期待でいっぱいであった。しかし現実の彼はその期待に反するひ弱な身体に縛りつけられていた。
では、リブレットよりカール5世(修道士)の登場部分を抜粋してみます。
1幕導入部
- 合唱
- 偉大な皇帝カルロはもはや物言わぬ塵に等しい。今や天上の創造主の足元でその驕れる魂が震えおののいている。
- 修道士
- カルロは、この地上を治めることを望んだ、天の星達に正しい道を示される方の事も忘れて。彼の傲慢さは計り知れず、その過ちは余りにも深かった。
崇高なる者は、ただ神のみ。神が望めば、天も地も揺れ動く。慈悲に満ちた神よ、罪深き者達に慈悲深き神よ、傷ついた心に天上より下る安らぎと許しを与え給え。- ドン・カルロ
- 僕はあの人を失ってしまった!(以下略)
- 修道士
- (ドン・カルロの言葉を聞こうと立ち止まる)
この世の苦悩は、修道院の中までもついて来る。心の葛藤は、天上においてのみ消え去るだろう。
(鐘が鳴る。修道士は再び歩き始める。)- ドン・カルロ
- あの声は!.... 心が震える.... 僕には!.... 何と恐ろしい!衣の下に、王冠と黄金の胸よろいを隠した皇帝を見たような気がする。僧院に尚も響くは、あの声!
- 修道士
- (さらに遠ざかりながら、舞台裏で)
心の葛藤は、天上において消え去るだろう。
この間に色々ドラマがあって。
4幕終結部
いやー。この部分だけ読むと、物語の中盤でカルロが大層な野望を抱いて行動して、ヘンリー5世ばりの若き血の政治と闘いのドラマが展開されてそうじゃないですか。1幕の修道士の台詞は、自らの傲慢を省みたあの世のカール5世の後悔の言葉であって、かつての自分のような野望を抱く孫のカルロを諫めるために語りかけている。→ しかしカルロはその忠告に耳を傾けず、行動を起こして見事に失敗する。→ 失敗したカルロをカール5世の亡霊が回収。ちゃんちゃん♪で終わりそうな展開です。
いやしかし。そうでもないんですな。カール5世の修道士が物騒なことを言ってる間にも、カルロはその後のカルロらしくなよなよしてるだけです。はっきり言って噛み合ってないです。じっちゃん、こんな奴のためにあの世から出てくる値打ち無いから。あの世で温泉にでも浸かってゆっくりしてたらいいよ。それはともかく、唯一噛み合ってそうなのは「心の葛藤は、天上においてのみ消え去る」の部分だけです。これって、馬鹿は死ななきゃ直らないってこと?
こんなお馬鹿なカルロくんですが、カールじいちゃんは優しいので、カルロのピンチのときには再度現れてくれます。どう考えてもカール果敢王のイメージじゃなくなって来たな。ま、いいか。
この物語で一番しっくり行かないのはここなんですよねえ。レポの合間に書いてきたように*1、私はこのリブレットは大変上手いと思っているのですが、ここは分からないんです。他の部分はシラーの再構成の範囲内で核心をつきつつコンパクトにまとめているのですが*2、カール5世の登場はオペラオリジナルです。
原作のシラーの方は*3亡霊そのものは登場しませんで、牢から脱出したカルロがカール5世の亡霊の噂を利用して亡霊の扮装をしてエリザベッタに会いに行くのです。見張りの兵達は噂通りの時間に噂通りの格好をして現れた亡霊に驚き恐れて、そのお陰でカルロは素通り出来るという展開です。このことに気付いた王が大審問官と共に踏み込んで来て、結局カルロは捕えられてしまい幕となります。おそらくここは、牢に幽閉されて死んだという史実のカルロの最後を自然に想起させるように組み立てられたのでしょう。
ただオペラとしてはこの結末は弱い。劇的でない。おまけに背景知識を要求する。というわけで、人でないものを登場させ最後を盛り上げて終わりたくなる気持ちは分かります。keyakiさんからデウス・マキナ(参照→wikipedia:デウス・エクス・マキナ)という指摘がありましたが、私はこれは結末を神に委ねたわけではなく、結末はその前に王と大審問官に踏み込まれた時点で出ていて、つまり原作に忠実に結末を変えずに、しかしオペラっぽい終わり方に処理しただけじゃないかという印象です。強いて言えば、ラストのカール5世の登場は時間を凍結させる効果があります。観客に、あの後カルロはどうなったんだろうということを(現実世界の問題として)考えさせない効果ですね。これによって、観客に史実理解を暗黙のうちに要求しているシラーの戯曲から、よりフィクション色の強い、作品単独で楽しめる存在になりました。
結局カール5世の登場は、ドラマ本体には影響を与えていなくて、プロローグとモノローグの付加以上ではないというのが今のところの私の結論です。
そうすると、残るはプロローグの不可解さです。身も蓋もないstarboard翻訳によると、
このままだとカールじいちゃん、最後に来てくれなさそうですね。いい感じにオチがついたところで、現時点のまとめとしてはとりあえずこんなところで*4。
あ、あと次の機会までの課題として、この部分、宗教的側面に注目して解体すればさらなる解釈が出来るかということをメモっておきましょう。リブレット作者やヴェルディの宗教態度についても調べねば。ヘルプ熱烈歓迎です。
*1:例えば→http://d.hatena.ne.jp/starboard/20090901
*2:コンパクトにしつつ劇的効果を高めることに成功しているというのが私の高評価の理由です。
*3:手元にないので記憶で書いてますが。
*4:念のためですが、この最後の身も蓋もない翻訳のところ「だけ」はギャグですからね。誰も混同しないと思うけど念のため。