世界のたから!

なんかもう最近の私はヘンである。もはや何度目か分からぬジークフリート・マイブームである。四六時中、頭の中で音楽が鳴り響いている。それというのも、超素晴らしい録音を聴いてしまったのだ。こんな録音が残ってたなんて!神様ありがとう!!この録音の成立に関わった人ありがとう!出会わせてくれて有難う!

なんかねー。本当に「ここ」がきゅーっと締め付けられて、なのに心?頭?がほんのりほんわかして、何故か何故か自然に「世界のたから!」と思ってしまうのだ。なんでだろう。わっかんないよ。私がこうなるのはジークフリートだけなんだよね。なんだろう。いま体験してるものは本当にオペラなんだろうか。なんか音を介してというよりテレパシーかなんかで直接なんかしてるんじゃないかという気がずっとしてた。

ジークフリートは、あの寂しさの表現が溜まらないんだよなあ。ああいう種類の寂しさを描いた作品があったろうか。1幕がもう寂しくて溜まらないの。だから2幕でそれっぽい台詞が出てきたところで、そこだけそれっぽくやっても駄目・・・駄目というか、鼻白むのだよなあ。こういう感性をしてるから、人が良いと言うものが良くなくなってしまうんだけど。私にとっての1幕は、どんだけ2幕につながる寂しさが描けるかである。だから、ノートゥングの歌とか、結構どうでも良かったりする。そこんとこは、ワーグナーはアリアになると詰まらなくなると言ったショーに同意である。

しかし、ジークフリートにおけるこの特別感はなんだろう。何もかも特別なんだ。もちろん彼は「ずっと欲しかったもの」をくれた人でもある。スクリーン越しに「ずっと欲しかったもの」をくれた人が、会いに行ったら両手を広げて迎えてくれたのを見たときは「うっそだろー」と思った。実際はそのときは思わなくて、帰ってきたらそう思った。すいません、この段落、人が摩り替わりました。今日はキャラクターとしてのジークフリートの話をしていたけど、ここだけ摩り替わった。

話は戻って、そういうわけである録音にメロメロなのである。1997年のインバル指揮のトリノRAI放送響による演奏で、オーケストラは結構バラバラだったり個々の音がイマイチ雑かったりするが、全体としてはすごく聴かせる不思議な演奏である。録音は粗いが定位がはっきり出ていて臨場感があって私は大好きである。ちなみにRAIで放送されたものを同好の士のご好意で入手することが出来たのだが、ラジオ放送でこんな定位のはっきりした録音はじめてだ。こういう極端なのが好きだとクラ界の人には品がないと言われそうだが。

ちなみに私がせっせと入手しようとするくらいだからみなさん予想済だと思うが、アナセンがジークムントとジークフリートを歌っているリング・サイクルだったりする。オーフス・リングでのロールデビューから間もない頃ということで、こなれ度合いと等身大さが両立している。オーフスのときはオケがすごくいいのだが録音が良くなくて*1残念だったのが、今度は思いっきり没入出来る。

いやあ。このジークフリートワーグナーに聴かせてあげたかったなあ。我ながらなんでこんなことを思うのか謎だけど、私は明らかに彼に親近感を抱いていて、それは彼もまた自分の猜疑心に苦しんでいたのだろうと思わせるところに原因があるんだけど、それとこれを聴かせてあげたいと思う理由は、共通のものなのだ。

あのさ、こんなこと言っちゃいけないんだけど、日本でジークフリートの解説書いてる人とかさ*2、本当に分かってんのかね。ドイツ人はこういうのが好きだからと思ってるらしいんだけど、そのドイツ人と彼らの個人的な知り合いにもいるであろうドイツ人はちゃんとつながってんのかね。大抵いつも、書くことに困って書いた「知ったか」感が満載なんだよね。うーむ。ジークフリートのことになると頭に血が上っていかんなあ*3

*1:というかアナログからの変換に伴うホワイトノイズがひどくてどんな録音だったのかもよく分からん。

*2:パンフレットとかのレベルの話ですよ。

*3:本当に逆上せているから仕方無い。