オペラ月の影(源氏物語)@春秋座

あまりにも有名な古典を、和歌をアリア、現代語訳をレチタティーヴォとしてオペラ化した作品。2009年に宇治で上演されたものの再演だそうです。

面白かったけど、かなり教養の要るオペラだったのではないか。というのは、知識のあるところはかなり面白く観れる一方で、あんまないところは、文字通り言葉が素通りしてしまったから。

恥ずかしながら私は源氏物語を現代語訳でも通して読んだことがない。二次創作(映画化・漫画化)ですらない。逆にこういう日本人は珍しく作り手の想定外だったかもしれない。それでも部分的に知っているところは、和歌の語句ひとつひとつを旋律にのせながら発せらせている時間に、改めてその言葉・意味と向かい合うことになり、気付かされたことが多かった。その時間に演奏されているもの以上に、受け手が感じることが出来る、そんな試みであったと思う*1。なにか散文を原作にしたときとはまるで違うことが起こっていて、音楽の力に助けられながらも、素材のポテンシャルに触れる時間となっていた。

和歌の部分だけ字幕が出て現代語訳の部分は出ないのだが、思ったよりはよく聞き取れるものの、残りわずかな聞き取れない部分がストレスになる。それでも発音に関してはよく工夫されていた方だとは思うのだが、そこまでやっても、予め内容を知っていれば推測で聞き取れるけど知っていないと聞き取れないというのは致し方ないものか。


フルート(?)、チェロ、パーカッション各一人にシンセ3台というミニマムな構成のオーケストラで、西洋音楽の枠組みの上に日本的なサウンドが乗っている。主にフルートとシンセが日本的な音色を担当する。歌唱パートも、意外にもオペラのままで日本的な後味。女声パートが、日本的に(女房的に?)最後がきゅっと上がる音程で閉めるのが面白い。

ただ、これは上演上のコストなどで致し方ないかもしれないが、直接音を同時に聴くというシチュエーションでは、シンセは生楽器の音色とはどうしても異なって聴こえるし、折角目の前で演奏してくれているのに申し訳ないのだが、どうも録音を聴いている気分になってしまう。いかにも映画音楽風に聴こえる効果も。ここはシンセ無しで頑張って頂きたかった。せめて1台にしてちょっとしたアクセントに使うくらいではどうか。この会場は非常によく響くので、生楽器だけで聴きたかったというのが特に強い。


歌唱的には、男声が源氏と頭中将だけで、後はとっかえひっかえ女声が出てくるので、そして女声陣が、それぞれは個性を出そうとしているのは感じられるのだが、やはり普段馴染んでるものからすると一定の味付けを施されたものなので、後で思い返すと、どうしても似通った印象になってしまう。これは源氏物語という素材である以上仕方無いのかもしれないが、ここまで女声が続くことを避ける意味で、語り部としては(紫式部なので女声が自然なのかもしれないが)男声を置いても良かったのでは。実は私の行けなかったダブルキャストのもう片方では紫式部テノールが歌っていて、なんでかなあと気になりつつそっちには行けなかったのだけど、今日の女声続きを聴いて、その方が効果的かもと思った。

源氏は言葉と歌唱の両立という面ではよいのだが、歌唱・姿の両面で、いきなり最初から甘いも酸いも知った大人の男性という感じで、それはそれである種の色気があるのだが、前半はやはり違うのではと思ったりした。雨夜の品定めでは、頭中将とは親子のように感じてしまったという問題が。須磨以降にはしっくり来たのだが。

女声陣はその瞬間々々は面白く聴けたけど、どうも次々と出てくるせいで一人一人の印象としては薄まってしまった感がある。その中で藤壺と六条の御息所は印象に残っている(何度も繰り返し出てくるのもこの二人であるが)。六条を歌った船元さんが「悔しい」を殆ど無声音でやっていたのが強く印象に残っている*2

http://www.k-pac.org/performance/20120526.html
2012年5月27日(日)京都造形芸術大学 春秋座
オペラ「月の影」−源氏物語
尾上和彦 作曲
原作:紫式部
台本:ツベタナ・クリステワ
指揮:奥村哲也(27日)
演出:茂山あきら

キャスト:(後で転記予定)


この日本独特なものといえる和歌の役割は、不思議にも西洋のオペラのアリアに似ている。(中略)物語の中の重要な和歌をアリアにして、その現代語訳をレチタティーヴォ(旋律付き語り)として構成すれば、まさしくオペラである。私はそのレチタティーヴォを、語部の紫式部と、中宮雀の女房たち(ギリシャ悲劇でいうコロス)に表現させ、その女房たちを重要人物にも変身させた。

*1:ただし、前述したように、そうなるには受け手の側に予め相応の準備が出来ていることが必要であるが。

*2:これではオペラの評ではなく芝居の評みたいだ。