クンドリのキス@パルジファル

いつもお世話になっている wagnerianchanさんのところで、パルジファル2幕のオーソドックスな解釈とやらを知り、驚いて書いたコメントのコピー*1

http://d.hatena.ne.jp/wagnerianchan/20120816/1345083254
「第2幕のクンドリーの口づけ(46分15秒)の意味というのは、パルジファルにとって「性的な欲望」を呼び起こすということでしょうか?パルジファルはそれに対する嫌悪から、聖なるものを想起するという解釈がオーソドックスな解釈だと思いますが。*2

へえー。そうなんですね。思いもよりませんでした(こんなだからズレまくっているのかなあ)。

わたしもこのシーンは性的な欲望の喚起だと思っていますが、前後の解釈が全然違います。パルジファルはアンフォルタスの苦しみを見て、頭では分かるけど、でもそれがしっくり来ない、肝心なところが分からない。ところがクンドリにキスされて、うっとりしてしまって、その瞬間、ああこれか、と腑に落ちるんです。ジグソーパズルの欠けたピースが見つかる瞬間です。それで、そこではじめて、真に共感するんです。欲望の理解から、一瞬にして欲望に負けた者のその後の辛い時間や、さらには誘惑者であるクンドリの哀しさにまでに思い至るパルジファルは、ものすごく察しのいい人です。白紙状態(愚か者)だから可能なのかもしれません。

パルジファルは、アンフォルタスだけでなく、クンドリや、もしかしたらクリングゾルにも同時に共感しているのかもしれません。相反する複数の立場に同時に共感して、それを受け容れること、その体験がその後の放浪における彼の態度を決めているように思います。

私の中ではクンドリはイエスに欲情した女で、ゆえに罰は甘くて、永遠に続く時間は、辛いと同時に、ある種甘美な感情を呼び起こさせるものです。彼女は自分を拒絶出来る強さを持った人間をずっと待っているのですが(それは自分にかかった呪いを断ち切るためではなく、そういう人間でないと愛せないからずっと待っているのですが)(イエスに惹かれたこと自体がその種の強さを求めているということだと思います)、女は自分を性的に扱わない男からのみ性的に扱われたいのだというよくある命題を連想させます。

だから私の中ではこの話はすごく生々しい人間を描いたもので、あまり聖性の側面というのは影が薄かったりします。生々しい人間を、被害者も加害者も全てひっくるめて受け容れたらそれが聖性(と人が呼ぶもの)になったというような位置付けです。パルジファルの音楽は、そういう全てを受け容れるというイメージが私にはあります。

*1:ところで何故こういうのが「オーソドックスな解釈」として成立し得るのか私にはさっぱり分からないし、そういう人の話を聞いてても「テキスト読めてないんじゃね」としか思えないので、私はその手の本は全然読まない。ので、よく勉強してる人からは大抵よく思われない。

*2:wagnerianchanさんとこでは、この続きは、また別な展開をしてますので、そちらも併せて読むことをお勧めします。私の以下の文章にはこの部分だけしか関係ないので、ここだけ抜粋しています。