正論と方便

物事を考えるときに、事実認識とそれを踏まえた判断というものがあると思うのだが、その上で配慮やら気遣いというものがあるべきだと思うのだが、事実認識の時点で配慮やら気遣いというものを要求してしまうのが、今の日本の諸悪の根源だと思う。事実を認識せずに、政治的あるいは感情的に有効かどうかで、認識が歪んでいくのだ。そういうことをやっていると、一旦ちゃんと詰めて考えるということをしないから、「配慮やら気遣いやらの振りをした何か」にどんどんいいように利用されてしまう。事実を認識するという前提がなく*1、何もかも混沌とした状態を当然視していると、そういったものを拒否することが出来ないのだ。

その状態を、私は、正論が方便に乗っ取られると呼んでいるのだけど。

*1:現実には、事実と認識出来ることの間にはギャップがあるので、必ずしも常に事実を認識出来るとは限らないのであるが、だからと言って、最初から目指さないというのとは大違いである。95%の最後の5%が詰められないというのと、0%でいいというのは全然違うのである。