タブーについて、私の反省について

京都会館のことを扱って以来このブログは迷走して色んなことを扱うようになったわけですが、最近は、政治の話はタブーという日本の常識について、それに従って自粛してきた自分について、つくづく反省しています。

この問題は非常に複雑で一人で対応することは難しく、各人の専門性を持ち寄って多様な視点の意見を交わすことによって深まるというステップが不可欠で、一人で色々調べて完結することは非常に難しいだろうと思います。その難しさは、まるで、学校にも通わないで、定評のある教科書の存在も知らずに、たった一人でゼロから調べて、ひとつの学問に取り組むようなものです。

そのような性質を持つ問題について、社会的にタブーであり、話題にしてはならないということにしておけば、情報は共有されず、適切な判断は下されず、解決手段はいつも適当になり、状況は把握されず、どんどんズルズルになって人々の目にはどうしようもなく手の付けようがなくこじれた問題として写り、そのような状況に閉塞感と諦観が漂い、人々の関心は薄れ、益々投げやりになってしまうことでしょう。

ですから話さなければならないと思います。なんとしてもタブーを打ち破らなければならないと思います。タブーを守っている人々は、たぶん本人は、他人の気分を害しないように自分の言いたいことを飲み込んで貢献しているつもりだと思いますが、その行為の加害性(結果としての加害性)を自覚した方がいいと思います。日本人の自己犠牲精神が結果としてもたらす加害性というものについて、この2年見つめ続けざるを得ませんでした。

ネットというのは私には有難いメディアでして、内心では気に入らないんだけど波風立てないために仕方なく笑顔で応対してくれているのかも・・・と発信側が先回りして心配する必要はなく、気に入らなければ読まない、立ち去るという自由が受け手の側にあります。気に入らないと表明する自由もあります。自由はあなたの側にあります。