何故オペラを観るのか、あるいはstarboardが超粘着気質であることに関する短い考察

私は、何故オペラを観るのか。ついでに、何故一枚聴いて、なかなか次の作品に手を出す気にならないのか。さっきまで漠然と考えてました。どうもこの2つは結びついてる気がしたんですよ。

で、今のところの直感なんですけど、どうも、自分の中の創造性とやらを掻き立てられるからじゃないかと思いました。こういうことをカミングアウトするのは実に恥ずかしいんですけども。大体、自分にそんな洒落たものが備わっていたとは自分が一番吃驚です。

一本終わった後に、言語化出来るもの出来ないもの、全て渾然一体となったイメージの世界に戯れるのは実に気持ちいい、快感なんです。聴いているその瞬間より快感かもしれません。変な話ですが、ここが一番美味しい瞬間でイメージが最大限に膨らんでいるから、だから、その時間を長引かせようとするんです。日が経つと変わるし、イメージが膨らんだ状態で音を聴くとまた全然違ったものが浮かんで来るし、とにかく日々刻々変わっていく。窓の外の季節の移り変わりのようなものを自分の中に発見する。いやー。書いててさすがに恥ずかしいな。

その一部は言語化して右舷日記にアウトプットして、言語化の過程で色んな角度から戯れてみたりします。


全然違う話をしますが、私は子供の頃は自分のイメージ過剰さ加減に不安を持っていました。このblogでしばしば文学の話なんぞをしてますが、ああいうのを読んだのは中学生までです。えらい昔の記憶だけでさも知ってるかのように書いてるわけです。あ、石は投げないでください。投げるとあなたのPCが壊れます。

まあとにかく本を読んでは蕩けそうになって今と似たようなことをやってたわけです。あまりにもそういう性向が強いんで、それに没頭し過ぎていつか日常生活で取り返しのつかないことになるんじゃないかとか*1、真っ当な大人になれないんじゃないかとか、これまた口から先に生まれてきたような子供だったので、イメージの表現だけで現実や厳密性を無視した話を展開して、いつか大詐欺を働いてしまうんじゃないかということが怖かった。イメージ先行の話って本当のことより本当らしいですからね。

そういうわけで進路を選ぶときに絶対イメージで誤魔化せないものを相手にしようと思って理系を選んで*2、そればっかりやってきたわけです。それ以前はあんなに読んだ文芸書を読むことすらしなかった。

いままた久々にこういうことをやりはじめて、もう大人だからコントロール出来るから大丈夫だろうって思ってやってるんですけども。客観性に縋りつきたくなったり、オペラに求めるものがあまりにも突飛だったりするのは、この辺に原因があるかもしれません。空気を震わせるすごい音を求めてるんじゃないんですよね。それは仕掛けのひとつではあるけど、目的ではない。観た後に創造性を喚起するようなものを求めてる。

*1:わたしゃタンホイザーか?

*2:人間はモノの言い様でなんぼでも誤魔化されますけど、実験結果は誤魔化せませんからね。