マイノリティとマジョリティについてぐちゃぐちゃ考えた。

副題はstarboardの頭の中を開陳する試みです。もう全くオペラ日記じゃないですから。

昨日のコメントを書いた後にぐちゃぐちゃ考えていた。結局ここで書いてるのはマイノリティとマジョリティの話で、マイノリティの個性だけが個性ではないということで、私は(自分をどちらかというとマイノリティの側だと思っているので)マイノリティ礼賛的な流れにものすごく抵抗があるんです。世間というのも誰かの「自分」の束で、同じように尊重しないといけないのだけど、向うには数の圧力があるのでついつい忘れがちになるので、戒めとして常に意識しておかないといけないと。

一方で、「個人」に対する「集団」としての側面を「世間」と呼ぶこともありますね。今回は感受性の話だと思うので該当しないと思うけど、これはこれでバーターになるので切り分けて考えないといけない課題です。

あとは、色んなずれ方があるんだけど「詩人」になるような好ましい(結果に結びつく)個性だけが個性ではないということも考えたりします。例えば反社会的な欲望を持つ方向にずれてる人もいるわけですよね。そういうことも考えていくと、個性が個性であるだけで尊重されるのではなくて、結局結果なんだよなあと思ってしまったりもします。

さっき自分のことをマイノリティと書きましたが、これも舐めた話で、結果として何をしたわけでもないし、全然ぬるいところにいて、なんもしてなくて、まあそのくらいのぬるい変人が一番クヨクヨするらしいので、悩んでいられるのは切羽詰っていない証拠というか、本当に苦労している人から見たら失礼だろうなと思ったりもします。素質的には別にそんなずれてたわけでもないんですが、立場的にマイノリティの側になるような進路をたまたま選んでしまったので考える機会が多かったんですよね。同時にマジョリティの立場から見て何が腹立つのかみたいなことも常に考えざるを得なかった。

私の一番の問題は、こういうことを考えたときにそれを口に出しちゃうことなんでしょうね。みんな思っても言わないんでしょうね。