内なる理想を超えて

この間届いたCDを聴きまくっている。例のタンホイザーだらけのディスクは内容もタンホイザーがメインなのだが、すっかり癖になってしまった。"Dir tone Lob" のところとか、ついつい弾みながら口ずさんでしまう。これ、DKTのあの可愛らしい音楽でやったら素敵だろうなあ。あーDKTタンホイザーが聴きたい。今すぐ聴きたい。とっても聴きたい。DVDリリースの話はどうなったんだー。Deccaのサイトに日参して心待ちにしてるのに。

このディスク自体は、そうね、本人の(声の)コンディションということでは、この前のメルコン前哨ガラの方がいいと思う。つか、あのガラは出色の出来だと思う。DRのサイトでオンデマンドで聴けるので、聴ける間にみなさん是非聴いてください。この音源は絶対ディスクリリースして後世に残すべきだと思う。オケもすごくいいし。よし、もっかいローエングリンを貼ってしまおう。
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それでディスク2の話。オケも指揮者も共通で、Ruse Philharmonicも1枚目のときの方が断然いいのだが、こう書くといいところが無いようだが、比較相手が良過ぎるせいだ。だって、あのときは、なんというか、魔法がかかっていたんだもの。毎回々々そうはいかない。

でもでも、やっぱり「特別」なんだよなー。なんだろうこれ。なんでこんなに「特別」なのだろう。

それでも、初聴のときにまた思ったけど、彼は10人が10人よいと言うタイプの歌手ではない。ぱっと聴いて、分かりやすくよいわけではない。迫力や圧倒を待っていると肩透かしだ。耳を澄まして自分を預けると届くような何かだ。

特に日本語圏での評判は芳しくない。殆ど話題にされないけど、たまに話題にされてたら9割は貶され文脈だ。ただ、残り1割の少数派にとっては、結構クる人らしい。こういうのって、カルト的って言うんじゃないかな(ジャンル的にあまり馴染まない表現だけど)。ちなみに、日本語圏以外だともっと評価されてる気がする。日本人とは相性が悪いのだろう。

その日本語圏以外の話だが、まともな批評文などでも、「メルヒオールには及ばないが」とか「○○や△△のような本物の立派な声は持っていないが」とか、そういうことを枕に書かれやすい人でもある。メルヒオールに及ばない歌手も、本物の立派な声を持っていない歌手も、星の数ほどいるだろう。しかし、そんなことを言われない歌手が殆どだろう。他の人でそういう文面はあまり見ない*1。しかし、そこで、そう言いたくなる気持ちは、ちょっと分かる。「ちょっと惜しい」人なのだ。「これで○○さえ備えていたら」という気分にさせる人だ。

決して、全然、完璧ではない。でも、完璧を遥かに超えている。そういう人だ。

その完璧の話だが、私は声楽って聴いてて欠点の方が気になってしまうタイプで、それを避けると楽器のような均質さを求めてしまうというか、いかに(私にとっての)欠点、苦手なところが無いかが基準になっているようなところがある。理想とは、欠点を無くすことであり、欠点を無くしていくと内なる理想に近づく。無意識にそれが当然になっているところがある。

でも、この内なる理想を平気で無視して、飛び越えて、思ってもいなかったところにある理想を見せてくれるのがアナセンだ。この感覚は、自分の外に理想があるというのは、それに気付く瞬間は、本当に貴重だ。別に音楽だけじゃない。普遍的な話として、成長すると理想は自分の中にあって、外に発見することは難しくなるだろう。その珍しい瞬間に連れて行ってくれるから、アナセンは特別なのだと思う、私にとって。


なんか今日も恥ずかしいことを書いちゃった気がするなあ。いいや、読み返さずに送信しちゃおう。

*1:表現や技術の問題として「誰それのような○○さ」が欠けていると書かれた文は沢山見るし、これは(賛同するかは別問題として)具体的な分析であるし、批評スタイルとしては正当だろう。