バーナード・ショー抜粋(2)

(1)の続きです。

  • ジークフリートの位置づけをはっきりさせる必要から、オペラの定番悪役ハーゲンよりももっとスケールの大きい敵対者が設定されなければならなくなった。かくしてワーグナーは、ジークフリートのハンマーで叩かれる銃床としてヴォータンを造らねばならなかった。そして元の話にはヴォータンの出る余地がなかったため、ワーグナーは前の時代に遡って、しまいには人間社会の起源にまで至ることとなった。そうなると、全世界を包み込むこのスケールのなかでは、ジークフリートはヴォータンやフリッカに代表される自然を超えた宗教と政治組織という高尚な勢力だけでなく、多くのもっと下賎で愚昧な力とも争わなければならないことは明らかであった。そこでそうした群小の敵対者も、アルベリヒ、ミーメ、ファーフナー、ローゲなどという形でドラマ化しなければならなかった。』
  • 『ノルン達の談合やヴォルトラウテのブリュンヒルデ訪問をカットしたところで、《神々の黄昏》のドラマは完全に一貫したままだろう。』
    • いやそれを一緒にしちゃ読めてないって。
  • 愛という万能薬
    『あらゆる悪への治療法、あらゆる社会的困難への解決策として愛を掲げることで、万能薬頼りの教訓主義に陥ってしまう。』
  • 『それどころかワーグナーの場合には、愛は生への欲望を完全に満足させるので、満たされた後には生きる意志が人を煩わすことはなくなり、人はついに死を至高の幸福として迎えることができるということが愛のもっとも素晴らしい点であるという見解すらはっきりと認められる。』
  • 『最後の文句は「愛こそは光り輝き、死さえも笑っている!」で、光り輝ける愛と笑いかける死とを同一視している。』
  • 『つまり事の真相は、《神々の黄昏》と《ジークフリート》終幕に見られる愛という万能薬とは、この物語が初めにオペラとして着想されたときの未加工なアイディアの生き残りなのであって、それはさらにワーグナーのその後の(しかし最後ではない)愛についての考え方、つまり「生への意志」を満たし、夜と死を受け入れさせるものという概念を予感させるように修正を加えられたものなのである。』
  • 愛ではなく、生命
    『理を弁えた信奉者であれば、《指輪》から汲み取ることのできる信条は一つしかない。それは愛ではなく、生命そのもの、止むことなく前進し向上する、疲れを知らない力としての生命を信じることである。』
  • 新聞紙上のワーグナー論争
    • コンパクトに引用出来ないのでしないが、なんとヤッたかヤッてないか論争がショーの時代のイギリスで起こっていた!ブリュンヒルデが嘘つきであるとの非難に対して、擁護派が突飛な論を立てて反論したとのこと。みんな全然テクスト読めねえなあ。
  • 『もっと本当らしい説明は、・・・・ヴォータンがブリュンヒルデから神性を取り去った時に、彼女の高い道徳性も奪われてしまったため、ジークフリートの口づけで目覚めたのは嫉妬深い普通の人間の女であった。』
    • この後長い反証の後、ショーはこの矛盾を、当初の「ジークフリートの死」の構想が残っていた部分と、その後書いた寓話的な部分とのつじつま合わせが厳密になされなかったとしている。
  • 『《神々の黄昏》は、そこから派生した世界詩ときちんと首尾一貫するような改訂を受けていないのだ。これが、この作品を巡るあらゆる論議に対する本当の解答である。』
    • そんな話を観てて面白いの?つーか、そんなつもりで観てて面白いの?
  • ブリュンヒルデが登場し、火葬の薪山が築かれる間に長大なシェーナを高らかに歌う。ここは極めて感動的な堂々たる場面だが、確固とした知的批評に耐える要素はなく、ただ劇場映えするパトスが非常に強烈かつ高揚した形で活用されているのみであって、・・・・』
  • なぜワーグナーは考えを変えたのか
    ワーグナーが理想を見た改革者達が敗北し、支配者や軍と権威、資本家達と社会の現実を見て、もうジークフリートに夢を見られなくなったためと説明している。
  • 『彼は英雄たちや最終的解決を夢見るのを諦め、《パルジファル》の中に新しい主人公像を構想していた。その主人公とは英雄でなく愚か者。彼が武装しているのは問答無用に人を切る剣ではなく、使ってはならないという条件で持っている槍であり、竜を退治して大喜びするのではなく、白鳥を撃ち落して恥じ入るような人なのだ。解放者については概念は完全に変わってしまった。』
    • どうでもいい枝葉だけ突っ込むが*1ジークフリートが竜を退治して大喜びするのは、本人ではなく周辺だよ。ジークフリートは、竜を退治してなお、寂しくて寂しくて溜まらない子だ。
  • 『「ある芸術家が自作を前にして、もしそれが真性の芸術であったならば、それが判じ物のように思われて、その作品について彼自身も他人同様に思い違いをしているかもしれないと感じられることがある。」・・・・盲目的な本能の産物を、論理的構想の帰結と見なすことによって、我々は天才的な人を神格化しがちなのだ・・・・ワーグナーがいう「真性の芸術」とは芸術家の本能の働きであり、盲目的であることでほかの本能と変わりはない。』
    • 自らも創作者であったショーによるこの記述は、指輪の解釈とは無関係に一般論として、この本で一番賛同出来るポイントである。しかしこの洞察を通じてショーはワーグナー自身による解説が、ワーグナー自身の言説の一貫性という意味でも、ショーの解説と相反するという意味でも、問題とするに当たらないという立場をとっており、結局自己の言説の正当化に展開している点は賛同できない。
  • ワーグナーの書簡から)『最も完璧な現実性のある愛とは、異性の間においてのみ可能なものだ。・・・・しかし昨今では人間について考えるとき、我々は心ない木偶の坊なものだから、知らず知らず男性のことだけを考えている。・・・・』
    • あんまこの手の言及はしたくないのだが*2、気が進まないながら一応。ワーグナーは女を犠牲にして大円団という物語ばかり描いたと言ってフェミニストからの批判があるそうだが、私はワーグナー読んでて全然そんな印象は受けないんだよな。むしろ女の扱いに関してはかなりラジカルな印象を受ける。
  • 作曲上のこと『ある決まった韻律のパターンに従って作曲するならば、パターンの選択と最初の楽節の作曲でもって生みの努力はほぼ全部なのだ。その後は多かれ少なかれ機械的にこのパターンを埋めていく作業であって、これは壁紙のデザインとよく似ている。・・・・こうした点を考えてみると、《指輪》にたくさんの繰り返しがあること自体は、古い手法によるオペラと大差ないということになる。では何が本当に違うのかというと、古いオペラでは因習的な韻律パターンを機械的に埋めるために反復が用いられるのに対して、《指輪》であるモティーフが再起することは、それが表す劇的な現象が再起することが分かるように興味を喚起した結果なのである。』
  • ワーグナーは卓越した文学的音楽家だった。彼は、モーツァルトやベートーベンのようにドラマや詩の題材がないままで装飾的な音の構成物を作ることができなかった。』
    • そういえば文学者にファン・・・・というより執着的愛好家が多かったな。
  • ワーグナーの伝統が何か役に立ったとすれば、それは装飾パターンによる音楽と劇音楽との混同をついに終わらせたことだ。』
  • ワーグナーは人間の声域全体を用いて、誰にも二オクターブ近くを求める。曲の大半は声の中域に楽に収まるが、そこは十二分に活用され、声の一部分が別の部分を絶えず健全に楽にさせている。最高音域の使用は控え目で、器楽伴奏には巧妙に慎重な配慮がされている。歌手がオーケストラの轟音と拮抗しているような時でさえ、スコアを一見すれば、歌手の声がちゃんと聞こえるようになっていること、それも巨大な声量のおかげではなく、声が聞こえるようにワーグナーが書いているからだということがわかるはずだ。』
  • 解説から。大体本文をまとめてさらってくれてるけど、新事実がひとつ。本文中で展開される性愛を忌避する態度について。ショーはジークフリート3幕以降は思考停止していて、ゆえにそれまでの分析力を持って読めていない印象を受ける。その背景がなんとなく分かる記述。
  • 『実生活でもショー夫妻はいわゆる「白い結婚(マリアージュ・ブラン)」だったし、ショーは幾人もの女性と浮名を流しながら、フィジカルな接触は苦手だった。』
    • ショーといえば「女の自惚れを満足させてやるのが男の至上の歓びであるのに反し、女の至上の歓びは男の自惚れを傷つけることである」「できるだけ早く結婚することは女のビジネスであり、できるだけ結婚しないでいることは男のビジネスである」の人では無かったっけ?どうせ女は馬鹿で利己的で男にたかることしか考えてないとか言って嫌ってんだろーなーと先入観込みで読み進めてきて、ちと考えを改めた記述。そっかー。そういう人が言ってんなら仕方無いんでない。それに後者は全く正しいと思うよ。ただ私は生命と性愛は、同じものだと思うけど。同じと言うのが乱暴なら、性愛を排除した生命賛美が可能だと思うなよとでも言おうか。我々が有性生殖をする生物である限り*3


最後に全体への雑感。歴史状況認識と寓話を結びつけたのがこの本のポイントなのだと思うが、私自身はさっぱり感心出来なかった。どちらかというと、先達のシニカルなことを言えば賢くなった気がするインテリ兄ちゃん達の総本山として読んでしまったところがある。

またこういう読み方が魅力的でないのは時代が大いに関係してると思う。階級闘争的な読解というのは、70年代くらいまでは強い説得力があったろうし、80年代にもまだなにがしらの影響力があったと思うのだが、90年代以降は全く色褪せてしまったというか、そこに搾取や支配の構造があるとしても、それは階級として分断されるものではなく、ある個人や集団が同時に搾取者でもあり被搾取者でもあり、どちらも我々自身の問題であり、分断して他者の問題のように扱うのは幼稚な態度であるというのが、現代の多少なりとものを考えている人間の態度であるかと思うのだが、まあ、つまり、そういう時代の目で見ると、階級闘争的な読みというのは白けるのだ。この意味で、ショーが最初に述べた以下のくだりは全く正しい。
『・・・・実は現代のドラマなのであって、遠い昔の嘘のようなお話ではない。・・・・観客が、自分自身が闘っている人生の写し絵をそこに見ることがなければ、この作品は主役のバリトン歌手が退屈な話を耐え難いほどくだくだとしゃべり続ける、キリスト教茶番劇が奇怪に拡大したものとしかなりようがない。』
この作品のいいところは、人間の本質を描いているので、その時代に合わせて『観客が、自分自身が闘っている人生の写し絵をそこに見る』ことが出来る点だろう。我々はヴォータンであり、ブリュンヒルデであり、フリッカであり、アルベリヒであり、ハーゲンである*4

*1:だって本論の方は、言うまでもないでしょ?ここまで書いてあるのに、この上重ねて何か言う必要がある?と思って放置するのは私のいつもの癖だ。

*2:言いたくないのは、自分の前半生の環境ではフェミニズムってのは、それに肯定的であろうと否定的であろうと、口にした途端色眼鏡で見られるようなものだからである。

*3:本当は「あんたが女の股から生れ落ちた限り」とでも言ってやりたいところだが、品がないので、この辺にしておこう(←結局書いてるやん)(←しかしよく考えてみると、この表現にはマクベスな反論「俺は母の腹を裂いて生まれた!」が可能であった。つまり身も蓋もない下品なもの言いより科学的な無味乾燥な表現の方が汎用性に勝るってことか。それはそうだな)。

*4:ところでここで、「ジークムントであり、ジークリンデであり、ジークフリートである」と言う気にあんまならないのは、やっぱヴォルズング達はちょっと現代人の想像力を超えたところにいるのかもしれない。なんというか、境遇が想像しにくいんだ。ハーゲンの境遇には比較的容易く思い至るのに、なんでだろね。