バーナード・ショー抜粋(1)

本を返却しなきゃいけないので、すごい勢いで抜粋メモ。コメントは後日。一部ピンポイントで賛同出来る点もあるものの、全体としては疑問な本。批判的だからちゃんとやらなきゃならないから引用が多いという面も。マンの方が私には明らかにしっくり来るのだが、あれは元々分かってる人しか分からん面もあり、この方がウケるのかな。よく分からん。

完全なるワーグナー主義者
ジョージ・バーナード ショー
  • 『それでも私が《指輪》を一番楽しもうと思ったら、ボックス席の後方にどっかり座り、脚を別の椅子に乗っけて伸ばして、舞台など観ないでただ聴くだけにするだろう。本当のところ、模写がせいぜいの舞台美術家が金をかけて描いた情景より先に想像力が及ばないようなら、そんな人間は劇場へ来てはならんのだし、また実際来ない。』
  • 『まず初めに、《指輪》とは、神々だの巨人だの小人だの、水の精だのヴァルキューレだの、願いの叶う頭巾、魔法の指輪、術のかかった剣、不思議な宝物だのが出てくるとはいっても、実は現代のドラマなのであって、遠い昔の嘘のようなお話ではない。これは十九世紀後半より前には書かれ得なかった作品である。というのは、その時代になって初めて極点に達しつつあった出来事を扱っているからだ。観客が、自分自身が闘っている人生の写し絵をそこに見ることがなければ、この作品は主役のバリトン歌手が退屈な話を耐え難いほどくだくだとしゃべり続ける、キリスト教茶番劇が奇怪に拡大したものとしかなりようがない。』
  • 『《指輪》には「古典派音楽」的なところはただの一小節もない・・・・だからこそ、ワーグナーは学問的教えを受けていない天性の音楽好きにとってはやさしいのだ。学者達は、ワーグナーの音楽が演奏されると一斉に叫び出す。「何だこれは?アリアか、レチタティーヴォか?カバレッタがないぞ―――完全終始も?どうしてこの不協和音は準備されていないのだ?なぜ正しく解決されないのだ?すぐ前の調性と共通した音が一つもない調に移るとは、何とけしからん、禁則の移行をやりおって。・・・・」』
    • 全然本論とはずれるのだが、その古典派音楽の規則とやらには、どんな必然性があるのだろう。長く生き残ったものには、なんらかの必然性があるというのが持論なのだが。現時点では全く不勉強だし、知らない時点には戻れないので、しばらくこの状態を楽しもうと思うのだが。しかる後に勉強する際には、出来れば、音楽を作るための音楽理論ではなく、人間の感覚を理解するという観点でアプローチしたいものだ。
  • 小人=小市民、アルベリヒ=彼らの同胞であり見えない搾取者、巨人=実効性ある労働力を提供することは出来るが自ら為すべきことを判断することは出来ない愚鈍な労務者、神々=高次の力、道徳的信義に基づく統治者、そして立法者が法の権威を保つために自ら法に捉われ、縛られる構図。ローゲ=主任弁証学者(心臓のない脳味噌)、フリッカ=法と契約の体現。
  • (自分の意志を法の代わりとする体制について)『いかに道徳的な言い分があろうとも、こうしたシステムは慈悲深い独裁者よりも利己的な野望を抱く暴君にとって都合がよい。』
    • 法と意志による統治の対比・ジレンマ。法の下僕としてのヴォータン。法に捉われず自分の意志を揮う存在として待望される英雄。
  • 『彼女は彼の名誉心に汚されておらず、権力の仕組みやフリッカおよびローゲとの連携によって拘束されてもいない。このヴァルキューレブリュンヒルデは彼の真の意志であり、(彼が考える通り)彼自身の化身である。彼女に語りかけることは、彼が自分に語ることとなる。』
  • ブリュンヒルデは神性たるヴォータンの内なる理念と意志であり、より高次な生命を志向する神としての向上心そのものである。だが神性が現世的権力のために王権や聖職者の策略に訴えるあまり、自身を裏切るようなことになったとき、はじめて彼女と神性とは別々なものとなる。』
    • 何故そこまで書いておきながら黄昏の最後を読み解けなかったのかね?
  • 『ところが今やその心根(良心=ブリュンヒルデ)が結束を離脱し、不可欠の同盟者である立法国家の破壊に動き出した。どうやってこの反逆者を無力化したものか?反逆者は神自身の愛しい娘であるから、殺してしまうわけにはいかない。しかし人目から隠し、抑え込み、黙らせておかねばならない。さもなければ反逆者は国家を転覆し、教会を無防備にしてしまうであろう。神性から完全に離れて英雄の塊として生まれ変わってはじめて、この者は現存の秩序を混乱、破壊することなしに活動することができる。』
  • 『真実を隠蔽するのは虚言にほかならない。・・・・実のところ、誰であろうと臆せずこの火の中に入っていけば、これがただのまやかし、幻影、蜃気楼であって、たとえ爆弾の袋を担いで行ってもまるで平気なことがわかるだろう。・・・・地獄とは大衆を威嚇し服従させるための作り話だということは、ものを考え支配する階層の人間がよく守ってきた秘密だった。当時ならば、抜きん出た性格と大胆な思考を有する者でない限り、ローゲの炎は誰にとっても真実本当に恐ろしいものであった。』
  • 『この少年ジークフリートは、不幸の技を教える神がいなかったので、父親の不運は受け継がず、その不屈の心のほうだけをすっかり受け継いでいた。・・・・父は信義に篤い人であったが、息子は自分の気性のほかに則るべき法を持たず、自分を養育した醜い小人を嫌っている。そして優しい世話のなにがしかの見返りを求められると無性にいらいらしてくる。要するに彼はまったく道徳律のない男、生まれながらの無政府主義者であって、バクーニン*1の理想、ニーチェの「超人」に先行する人間なのだ。・・・・祖父は支配者であるがゆえに法との錯綜した関わり合いに囚われ、父親はこのもつれとの悲劇的な苦闘を強いられたが、こうした暗雲のなかから陽光のもとへと、快活この上ない若き森人、暁の子が飛び出し、この男のうちに英雄の血筋が現れいでたのだ。』
  • 『ヴォータンはこれに比喩的に答える。つまり、なくなった目――フリッカとの結婚のために犠牲になった目――が今ジークフリートの頭にはまっていて、こちらを見ているのだというのだ。』
    • ジークフリートがフリッカの血を引いていたら気の利いた喩えだと思うけど、違うからなあ。
  • オペラに逆戻り
    『この後あなたが観るのはオペラ、ただオペラだけだ。何小節もしないうちにジークフリートブリュンヒルデは、新たにテノール歌手及びソプラノ歌手となり代わって、一緒にカデンツァを歌い、そこから愛の二重唱へとまっしぐら・・・・激しく駆り立てられ、そこには際立って対位法的な主題、保続音、そしてソプラノのハイCまで全部揃っている。・・・・それどころか、次の《神々の黄昏》はまるっきりのグランドオペラである。・・・・舞台を練り歩く合唱、・・・・マイヤベースやヴァルディ張りの劇場的な仰々しさ。主役全員が次々と重唱する場面あり、三人の復讐の誓いあり、ロマンティックな死を歌うテノールの歌あり、要するにオペラにつきもののありとあらゆる因習だらけなのだ。』
  • 『《神々の黄昏》は上演順では最後だが、着想されたのは最初であって、これを土台にほかの部分が生まれたのである。』
  • ニーベルング物語終局のカタストロフィは、いかに手を凝らしてみたところで、《ラインの黄金》《ヴァルキューレ》《ジークフリート》のいたって明晰な寓意デザインに当てはまるものではない。』
    • ジークフリート3幕の後半から黄昏を、オペラの古典的な様式に則っただけで寓意的な連続性はないとする。またその理由は、黄昏が最初に構想され、その後に作られた3作との統一が図られなかったと説明している。

(2)に続く

*1:ドレスデン革命の蜂起者。