彼に期待すること、歴史認識の変化とオペラ

他所様のコメント欄に書かせて頂いた文章の再利用です。抜粋しているので、全文を読みたい方はリンク先に。言葉足らずだったかなと思うところは注釈を足してます。

ところで、最近トークしてませんでしたね。パフォーマンス以外のことを書くのに抵抗が出てしまって、前してたようなパフォーマンスと直接関係ないツッコミトークはこの後もないと思います。久々なのに厳しい内容ですが、誰にでもこういう要求を持つわけじゃなくて、そんだけ期待が大きいってことで。

  • 声の変化と、彼のウィークポイント (starboard)

パーペの役作りがクリーン過ぎるというMadokakipさんの評価ですが、今回のボリスについては自分で鑑賞するまで判断保留しますが、パーペのロール全般の傾向として私はこれあると思います。いい人過ぎて、格好良すぎるんですよね、表現が。その分他の登場人物に汚れ役を(結果的に)押し付けているようなところもあり。これまではそれで成功し、支持もされてきたわけですが、ここらで一皮剥けてその先に行くところを見たいなーと思うところもあり。とはいえ、出発点が違う彼に従来この役をやってきた人のようになって欲しいわけではありません。もっと意外なものを見せてくれることを期待してます。ヴォータンでは彼が自分で汚れ役を引き受けられるかどうかに、私としては注目しておりました。

ドレスデンのボリスは演出の側がめいっぱい彼に寄っていたというか、最近のロシア史研究の成果を取り込んで、善人だが歴史のタイミングの犠牲者となったボリス像を描いていましたから、歌唱と合っていて効果的でした。実はわたし、最初に出たスチールや衣装画を見て、メトもその路線なのかと思ってたんですよ。でも一度目は歴史認識とオペラ演出の変化のコラボという観点から大いに関心しましたが、2度目はそれだけじゃねとも思ってました。だからこの結果はちょっと意外でした。どちらにしろ、自分で観るまでは判断保留です。

  • starboardさん (Madokakip)

私個人としては、ボリスという人間には、人を殺害してまでも政治の頂点に上り詰めたい、という、
ある意味は汚いところもある人間だ、というのは絶対に外せない部分だと思うんですよね。
その彼が善の自分と葛藤するからこそ、この作品は面白いのであって、
すべて善でディミトリを殺害したことは、いつのまにか霞みの向こう、というのは、ちょっと都合が良すぎる感じがしますし、
この作品からリアリティを奪い取ります。
そこは今回のメトの演出で若干不満に思う部分かもしれないですね。

  • ボリスにもヤったヤってない問題が (starboard)

私の言った歴史認識の変化とは、まさにその部分で、ボリスは殺ってないという認識がメジャーになってきたこと(*)に関してです。ドレスデンのボリスは完全に殺ってない説に因っていて、プロローグで偶然死の現場に居合わせてしまったボリスの姿が描写されました(歴史上は最も疑わしいポジションにあったため殺人犯とされたことの読替)。それで、メトもそっちかと思っていたのです。

これ知ってから私はずいぶん考え込んだことがあって、歴史認識として、ある人物の殺人が前提とされていて、それを元にしたフィクションがあったとして、後に歴史上の事実が覆されたとき、それを知った後では以前のように上演することは出来ないだろう、ということです。フィクションがもっと突拍子もないことであるなら全然気にならないかもしれませんが、汚名に類する事態でそれが事実と信じられていた背景がある場合は出来ないと思いますね。私は出来ないです。

だからってドレスデンのようなアプローチは、このオペラの本質を変えたとして許せない人や、そこまで行かなくても単に弱いと感じる人もいるでしょう。1回目は通用しても2回目以降はダメだと考える人もいるでしょうね。
私自身は今のところこれ以上考えられていませんが、社会とオペラという観点からすごく興味をそそられていますし、ボリス・ゴドゥノフという作品は作曲当時の意図を超えて、ものすごく面白いポジションに立ったと思っています。いつか、真面目でまともな考察の出来る演出家が、ちゃんと一連を通して関わった仕事を見てみたいですね。

(*) 歴史認識においてメジャーとはどういうことか、そもそも合意が有り得るのかという問題は本当はもっと丁寧に扱わないといけないのですが、この場ではそんなことに興味のある人もいないでしょうし、すごく乱暴なことを承知の上でこう書きます。

  • 歴史上の人物 (みやび)

御存じかもしれませんが、マクベスは、ダンカン王を「暗殺して」王位についたのではなく、真っ当に戦った末に王座につき、以降10数年ほぼ平穏に統治したそうです。
リチャード三世についても、王子2人をロンドン塔に幽閉したのは確かなようですが、殺人については異説もあるようですし、いずれにせよ、シェイクスピアの戯曲にあるような希代の大悪人ではなかったようです。
もっとも、シェイクスピアマクベスやリチャード三世がそもそも正しい歴史として認識されているのかが、そもそも私にはわかっていないで話していますが。

ということで、歴史認識は今後も変わる可能性があるわけですが、「マクベス」や「リチャード三世」は上演され続けるような気がします。
一方、マクベスやリチャード三世を善人とする小説(ジョゼフィン・テイの「時の娘」のように)とか戯曲とかも出てくるかもしれませんし、台本はそのままに演出で解決する、というのも出てくるかもしれないな、と思います。

歴史は勝者によって書かれるものですし、ましてや小説、戯曲、オペラといったものはあくまでもフィクションでしかなく、創作された時代の影響を強く受けているのだろうなと。

しかし、現代に近い時代の話になればなるほど、色々と難しそうですね。

  • starboardさん、みやびさん (Madokakip)

なるほど、、、ボリスの殺った、殺ってない、の件、
それから、ドレスデンが後者をベースにした演出だった点、面白いですね。

ただ、これは、私の考えなのですが、実際に殺ったか、殺ってないか、は問題ではあまりなくて、
ボリス自身が、ディミトリが自分が殺したと思いながら死んでいったのではないか、と思っている、
それだけで十分なんではないかと思うんですよね。
(私自身は、この作品自体は、ボリスが殺した、少なくともそれに関わった、という前提でリブレットが書かれているとも思っています。)

>後に歴史上の事実が覆されたとき、それを知った後では以前のように上演することは出来ないだろう
>私は出来ないです

なるほど、、、すごく興味深いですね。私は全くの逆で、“全然、出来る”派です。
私は、オペラは史実の設定を借りることはあっても、作品になった瞬間に、
本当にあったこととは、また別の物語・存在になっている、と考えています。
もちろん、上演に関わる方たちが、新しく明らかになった史実にもきちんと精通していて、
それを役作りに生かすというのは素晴らしいことだと思うし、それに越したことはないのですが、
表現しようとするアプローチは変われど、内容や核は変わるべきではない、というのが私の考えです。
それは、一つに、オペラを作った作曲家、リブレッティスト自体、
すでに、彼らのフィルターを通して、(新たな史実を知る前に)彼ら独自の物語を構築していると思うからです。
それは、例えば、『ドン・カルロ』のような作品でもそうではないでしょうか?
史実のドン・カルロは、もやしっ子のような王子だったそうですが、
そんなカルロを見たい観客は少ないと思うし、何よりも、エリザベッタとの関係、
彼が父との葛藤の中から選ぶ道にも現れている通り、
ヴェルディらがそのように作品を構築していないことは明らかだと思います。

でも、これはあくまで私の考えで、starboardさんがおっしゃっていることもとてもよくわかります。

  • Unknown (starboard)

みやびさん、シェイクスピアでこういう発想は全く無かったです。フィクション作品として有名過ぎるからでしょうか。ちなみにリチャード3世は私の初恋の人です(笑)。あとMadokakipさんが挙げられているドン・カルロも全くないです。こちらはフィクションと史実を混同する例もあったようで(ただしシラーの戯曲ではなくその元となった物語で、そっちの作者が歴史家でもあったので紛らわしかったため)、それに反証する書物を書く必要を感じた歴史家がいたくらいですが、そのこと自体が過去のこと過ぎて、今ではちょっと背景調べるとすぐ出てくる有名エピソードになってますよね。こういうケースでは全く抵抗ないです。

ということは、やはり元の事例が風化しているかいないかに由来するのだと思います。例えば、これが存命の人物だったり、子や孫が生きている世代だと抵抗を感じる人は増えるでしょうし、遠くなれば感じない人が増えるでしょう。そういう関係なんだと思います。

それと、ドン・カルロは創作作品としては「フィクションがもっと突拍子もないことであるなら全然気にならない」だと思います。下世話な勘ぐりではあるが汚名とかじゃないですし。プーシキンの原作は完全な創作というには踏み込み過ぎという事情があるんですよね。娯楽として書かれたというよりは啓蒙的な意図があって、この劇は長いこと当局によって上演を止められていて、最初の上演がプーシキンの死の直前か間に合わなかったか、そんなだったと思います。

あとロシア史って西欧的なリベラルな検証の対象に出来なくて*1共産主義体制の解体の後にやっとそういう自由があって、それからまた十年くらい経って一般書で普及するようになって、それで、それまで蓋をされていた時間の重みをついイメージしてしまうとか、私がボリス・ゴドゥノフの背景を調べたのはドレスデンがきっかけでしたから、東ドイツにとってのロシア史を念頭に置いて、つい思い入れちゃったとか、あるかもしれません。

ところで、私は、個人的趣味として、これはフィクションで別物とすっぱり割り切る人よりも、知って逡巡して迷いながらも自分の答えを出した人の舞台を観たいですね。たぶん伝わらないし、一般ウケはしないでしょうが。

読み返してみると私って、作曲家や台本作家へのリスペクトが全然ないなあ。「人間の文化」がこういう問題にどう向き合うかってことの方に興味が向いているみたいです。オペラは戯曲よりも作曲家の特別視、絶対視があるのを感じますね。戯曲対批評だとペン対ペンですが、作曲家対批評だと超えられない壁があるからでしょうか。

文中に出てきたボリス・ゴドゥノフとドン・カルロの背景はこの辺をどうぞ。

こういった内容に興味のある方は、当blogのカテゴリ:オペラ文芸starboard自薦集も併せてどうぞ。

*1:するのが難しくて。