理解と感動と直感とコンプレックス(1)

書きたいことは諸々あれど、わが時間楽にならざり。じっと手を見る。じゃなくて。時事ネタ(←自分的に)を放り出して、急に古いネタに手を出してみたりする。これもずっと書きたかったけど醗酵しつつある話題。実は近日中に書きたいことの布石であったりする。古い話なので引用から。

http://d.hatena.ne.jp/starboard/20110428
大体わたしはすごく本能的に音楽を聴いてまして、右脳的でなく左脳的な聴き方というのか、音が映像イメージに変換して止められなくなってすごい勢いで流れていくとか、すごく高揚する、胸がドキドキする、呼吸が出来なくなるってのが強く感じた場合の反応で、よく他の人の話に聞く「感動した」「涙が出た」ってのはまだ無いし、このままだと一生無いのかもしれません。この感覚の続きにそれはない気がするんです。背景、描かれている状況、そのときの自分の状況によって泣いたってのはありますけど、それって物語に動かされたのであって、音楽を聴いて無条件に感動ってのとは違いますよね。

これに頂いたコメントがこちら。

wagnerianchan 2011/04/30 21:46
私の場合、「感動する」というのは「理解できる」ということですね。『シンフォニエッタ』の場合も、なぜアンチェルがこういう演奏をしているのかというのが良く「理解」できます。
一方で「全然だめだ」という反応も分かるような気がして、「ドイツ音楽中心主義」からいくとだめなんでしょう。でも、今思えば、それは単に頭が固いのだと思います。

starboard 2011/05/01 02:37
「理解できる」とはまた思ってもみなかったキーワードが登場しました。なんだか私の勝手なイメージですが「理解」とは「感動」と対極的な現象のような印象でした。つまり「理解=知性」<=>「感性=感動」という構図が自分にあることを自覚しました!うーむ、思ってもみなかった。もひとつ思うのは時間軸のことで、理解とは時間がかかるもので、理解してる間に感動を逃してしまう気がします。これは感動の定義の問題かもしれません。つまり(私が)極めてインスタンスな感動しか「感動」に入れてないのかもしれません。さらに自問してみると、例えば文学や思想や理論などに遅れてやってくる(後でその意味に気付くなど)感動はあるが、音楽に対しては、そのように遅れて来るもの、特に物語や言葉を介した意味理解などは、なにか純粋でないというイメージがあることに思い当たりました。うーむ。

ついでに自分にとって「理解できる」というシチュエーションがどう訪れ得るか考えてみたのですが、まず最初に聴いてしっくり来たら「理解できる」は無い気がします。「しっくり来た」「違和感がない」と思うと思います。それまでに体験したものがしっくり来なくて違和感がある前提で、しっくり来るものを聴いたら「そういうことだったのか!」と思うかもしれません。これが感動ですかね。これは上で言った文学等に対して持つ感動に近いかもしれません。ただ、ヒステリシスなところが、真の感動とは違うんじゃないかと思わせるポイントです。ああ違うな、私は文学や思想や理論に対しては「分かってない」状態についても自信があるけど音楽についてはないんですね。まだ分かってなくて分かる日が来るのか、そもそもそういうもんなのか自信が無い。だから「分からない」の後に来た「分かる」が偶然なのか必然なのか釈然としないんです。

一方で、そういう種類の延長の中での私の思う感動ですが、何かそういう予測の範囲を超えたものを期待しているんだと思います。必然なだけでは感動はないです。以前このblogかどっかで書いたことがありますが、なにか原作を超えたもの、ある種の二次創作的な要素(もちろんそれは生半可では駄目で、原作をきちんと受け止めた上で昇華させたもの)が入らないと感動にはならないと思います。私はコペハンリングが大好きですが、あれはそういう種類の創作性があるから好きで、そこに感動したと言ってもいいでしょう。多くの人が指摘したようにリブレットと異なることをやってます。それも登場人物の生死すら変えるようなクリティカルな変更を。でもあれ観ると、ワーグナーが描きたかったけど描けなかったことを描いたと思ってしまうんです。やっぱり少なからぬ人が、たしかにリブレットと違うけど、ワーグナーがこれを観たら気に入ったろうということを言ってます。あんましそう言われた作品てないです。

大分話がずれましたが、理解できるというキーワードから感動について考え直すことが出来ました。

wagnerianchan 2011/05/01 17:41
そうですね。おそらくは「理解」という言葉の定義の問題で、思うに「反省的(理性的)理解」と「直感的(感性的)理解」というのがあって、starboardさんがおっしゃる「文学等からの感動」は前者で、私が言っているのは後者です。
この「直感的理解」には「驚き」が付き物だと思います。これまで「必然だ」と思っていたものが「必然でなくなる」感じですかね。ですから、コペハンリングを見た時、starboardさんはやっぱり「感動」(=私の言うところの「直感的理解」)をしたんだと思いますよ。starboardさんなら、おそらく本能的という言葉を使われるのでしょうが、「本能的インパクト」ということと「直感的に理解する」は実は同じだということに気付きました。
ところで、「ある人を初めて理解した」という時の「理解」とは、理屈で考えた理解ではなく、まさにこの直感的理解でしかあり得ないと私は思います。

sora 2011/05/02 01:41
私の感動は大体ニ種類で、一つは直撃系(直感系)である種の高音など(デヴィーアさんとか)を聴くといきなり‘ジーン’ときて涙が出る場合などで、これは多分あまりの美しさに直撃されちゃう本当に本能的なもので、もちろん台詞と一緒に直撃する場合もあります。もう一つは「じわじわ一体系」で、ふとその場の空気?空間?が一つになるのを感じるような時で、これもまた堪らなく贅沢な瞬間で感動なんです。

というわけで、私の場合はほぼ左脳ゼロって感じですかね、、、。なんとも学が無い感じです。
色にも惑わされやすいし。
でも私だって好きな人なら何でも良いってわけじゃないんですよ。オペラの場合はキャラとかイメージに合ってる事がとりあえず私の中では重要みたいです(これはその時々の私の受け取り方でいかようにも変化するということです)。

長かったですね。これだけで今日のエントリお腹いっぱいですね(笑)。じゃなくて。

soraさんの言う直撃系は、実は私にとっては痛いところで、私はこの手の良さってのは、未だに分かっていないんじゃないかという自覚があります。私がオペラを聴く理由は、登場人物の心情がテレパシーのように入って来る瞬間があるからで、一番いい時間は、その人がどんな声を出しているかさえ意識していなくて、ただ心情そのものがすこーんと入って来る、そういう瞬間です。歌という様式と制約を介しているのに、リアリティを追求した芝居よりも、その気になればなんでも詰め込める小説よりも、ダイレクトに伝わることに衝撃を受けました。表現重視です。

一方で、日本のオーディエンスは殆どが声質重視という印象を受けます*1。声質重視という表現も誤解が多くて、声量やテクニックなども含めて、音として聴いたときに立派(あるいはイメージ通り)なのが重視されるかと思います。録音で聴き込む文化があるのとも関係するかもしれません*2。言葉はあまり重視されないか、すごく分かりやすい部分だけ誇張して表現されていればよくて(というかそれが丁度よくて)、あまり凝ったものを込めていても伝わらないように感じます。というか、オペラにその種のリアリティを求めるというのが、そもそも普遍じゃなくて、ある種の徒花的な存在なんでしょうね。

で、声質ですが、今の私の感覚からすると、声質に注意が向くってのは、そもそもテレパシーが起こっていないので、その時点でダメなんです。ダメという言い方が強過ぎるなら「特別ではない」と言ってもいいです。私にとっては、テレパシーが起きたときの衝撃が強すぎて、他の全ては霞んで見えている感じです*3。だから声質は「どうでもいい」です。どうでもいい割に文句は多いですが、ダメじゃなければそれでいいのです*4 *5 *6。つまり、こんな感じです。
ダメ<(超えられない壁)<ダメじゃない<<<<<<テレパシー


だから私の場合は逆で「好きな人ならなんでもよい」ですね。何故なら私の好きな人とは、テレパシーを起こしてくれる人だからです。このへんは、名優なら合ってない役・まるっきり違う役(例えば中年の男性俳優がティーンエイジャーの女の子を演じるとか)でも見てみたいけど、外見ぴったしのその辺の女の子は別にどうでもいいや、というのに似ています。私にとっては、声質がいいけど表現がイマイチという存在は、外見だけで演技は大根な俳優に似ています*7。その声質だけでも狭き門なのは分かるんですがね。


と書いてきたけど、オペラを聴くとは大多数の人にとって、声を聴くことなんですよね(同義反復ですか)。だから、こうも思ったりします。自分は声を聴くスキルが無いだけで、無いからその他の針の穴を突いたようなところに目が向いているだけではないか。本当は、もっと豊かな世界が広がっているのに、みんなには見えているのに(だってあれだけ多くの人が夢中になるんだから、それだけのものがあるに違いない)、自分だけが分かっていないのではないか。だから、soraさんみたいな発言にはすごく劣等感を感じますね。特に女性の「聴いてて何故か分からないけど涙が出ちゃう」系の発言に対しては、すごく感じます。私には一生来ないもののような気がするので。

という話から中盤の「反省的(理性的)理解」と「直感的(感性的)理解」につなげようと思っていたのですが、一旦切ります。

*1:wagnerianchanさんみたいな例外もいますが(失礼)。

*2:録音で馴染むというのは、芝居として見るよりは、音として聴いて完結しているものが良いとなりやすい気がします。粗っぽい話ですが。

*3:これは元の文章の「不安感とか不安定さにすごくよく反応するので、それがうまくハマった時の本能的なインパクトはものすごくて、相対的にそれ以外のものは全て霞んでしまう」に似ています。私の感覚はこういうのが多いです。

*4:言うまでもないですが、このダメは「私と相性が悪い」であって一般的にダメなこととは無関係です。

*5:よく考えてみると、このダメも、声質そのもの単独ではまずなくて、ある種の声質がある使われ方をしたときに問題になるので、センスの問題が大きいですね。「あ、こいつとは合わない」と感じるあの感じに近いです。

*6:後で読み返したら、この段落、2種類のダメが出てきてややこしいですね。一回目のダメは「許容範囲内だが相対的に劣る」で、二回目のダメは「生理的に受け入れられない」です。

*7:外見も良くなかった場合よりも反感が募るという意味で。