京響定期2011年11月

本日は、前半は1階の後方で、後半はいつもの3階サイドで聴いていました。理由は、ピアノの音が聴こえ過ぎるのが好みじゃないから。んで前半は、相変わらずピアノに慣れないなーと思って聴いていました。とってもピアニッシモなときだけ辛うじて普通に聴ける感じで、殆どの時間は"びったんびったん"て聴こえるんですよ。これ、なに言ってんのか分かりますかね?どうしたらいいんでしょうねえーー。どなたかこんな症状を克服された方はいらっしゃいませんか。たぶん聴かなくてもいい音を聴いちゃってんでしょうね。困ったもんだ。

京都市交響楽団第552回定期演奏会
日時:2011年11月19日(土)2:30pm 開演
会場名:京都コンサートホール・大ホール
出演者:ギュンター・ノイホルト(指揮)
キム・ソヌク(ピアノ)
曲目等:
ブラームスピアノ協奏曲第2番変ロ長調op.83
ブラームス交響曲第3番ヘ長調op.90

そんで本日は、ブラームス尽くしの回でした。でもって感想はというと、ブラームスといえば中庸とか言われるわけですが、それがよくよく分かった回でございました*1。中庸に魅力がないかというと、そういうわけではないんですけども、それはやっぱり中庸としての魅力なわけで、そういうわけだよなー、うんうん(一人納得)。

編成は2曲とも小さめで、これまでの定期でも交響曲のときは、ステージいっぱいに広がった風景ばかり見ていたから、なんかあっけないほど小さめ。2管編成って奴ですかね。管の類が2本ずつしかないの。でもホルンは4本。トロンボーンも3〜4本いたような。

ノイホルトはあんま私好みじゃなかった。京響の定期で外人指揮者って、あんま当たったことがないんですけども*2。じゃあ誰が良かったかというと、早くも今年のベストなどということを考えてしまうわけですが、今年は断トツ外山先生のラフマニノフ交響的舞曲ですねー。あのこっくりした情感を何日も引きずったままだったもん。あとはいつものごとく広上のおっちゃんで、今年はラフマニノフ2番とレスピーギ「ローマの祭り」が甲乙付け難い感じ。私的にショックだったのが、大野さんの回が私的にはそんなにインパクト無かった*3ことだった。帰り道で知人はすごく良かったと言っていたので良かったのだろうと思うのだが、どうも世間の人が評価するものはあんましで、そうでないものばかりに惹かれる性分に生まれ付いてしまったみたいで、これはどうしようもない。ただ、捻くれて逆を言ってるとあらぬ疑いをかけられてしまうので、感じたことをそのまま表明出来ず、いつもなんかしらフィルターかけて生きているというか*4なんとなく人の顔色を窺ってしまうように成長してしまって、それがまた人を不快にさせるから困ったものだ。私も、自分が思ったように人も思うと無邪気に思えるように生まれついてみたかったものだ。どうでもいい話が続いたが、なんとなく演奏中に今年の振り返りをしてしまいましたということで。

何がしっくり来ないかというと、空間作りとか立体感がしっくり来ないんだろうなあ。そんなかで個々の奏者は良くて、第二楽章の木管とか本当に良くて、ホルンの首席は相変わらす大好きだし、ファゴットクラリネットの首席もいいし、フルートとオーボエは2本ともいいし、弦もみんないいし、なかなか個々にはいいのだが。まあ今回はこんな感じです。次は年末の第九で、あと1月と2月聴いたら、3月は遠征してしまうので聴けないから、そんな感じで後ろから数えてしまうこの頃でした。3月はおっちゃんの回なのに行けなくて悔しいから名古屋に行くことにしています。

*1:と、いまここで言い出したくなるくらい、単に、今まで真面目に聴いたことが無かったということでしょうが。

*2:これは「聴いたことが少ない」という意味ではなく、「私的ヒットがない」という意味です。

*3:聴いてる間は普通にいいものの、新鮮な驚きを感じたり、ショックを受けたり、胸が締め付けられたり苦しくなったり、何日もその世界にハマり込んで抜け出せなかったりといった、私が芸術に求める種類のものは受け取れなかった。

*4:私がこう思う→私がそう思うということは人はそう思わないだろう、みたいなことを常に前提に行動した挙げ句、最初に何かを思うときに同時にそうでないことも思っているので、何が本当なのかよく分からなくなってしまった。