名作オペラブックスのタンホイザーの巻から

最近まとまった記事を書けていないので、他人のふんどしで相撲をとろうということで、以前にメモっておいた文章から放出します。ワーグナータンホイザーの初演について書き残した文章です。「 」内は本からの引用、それ以外は私のメモ。ただのメモなんで、特にオチはありません。すんません。

  • 「すなわちこの歌合戦はアリアの競演であるべきなのか、あるいは詩的・劇的葛藤であるべきなのか、ということであった。従来のオペラというジャンルの特質として必要であったのは(そして今日でもなお、、私の舞台が完全にうまくいってもものごとを正しく理解できない人はそう考えているのだが)・・・・私の本当の狙いは、このたび――オペラにおいて全く初めてのことであるが――聴き手に詩人の考えに対する関心を持たせることが可能となって(考えの発展過程を段階的にたどらせることにより)初めて達成できることであった。というのはこうした関心からのみ舞台で起こっていることを理解する可能性が開けてくるのであって、それは決して外に現れたものによってわかるのではなく、唯一、心的過程の展開からもたらされなければならないからである。したがって、詩に書かれていることの理解を妨げないだけではなく、私が必要不可欠であると考える、音楽的にはきわめて中庸でゆとりのある規模がもとめられるのである。」
  • 「そしてまた旋律のリズム構造は、感情の燃焼とともに初めて高まっていくのであって、決して不必要な転調やリズムの変化によって気ままに分断されてよいわけではない。だからこそ、オーケストラ伴奏に関しては楽器はできるだけ経済的に使うべきだし、効果を高めるためのあらゆる音楽的手段は、事象の把握がもはやほとんど頭ではなく心でしかできないほどに状況が高揚しているところで初めて少しずつ使用していく以外は、意図的に慎むべきなのだ。」
  • 「そして私は歌手たちに正しい演奏法を教えるにはどうしたらよいかということに非常に熱心に取り組んだ。しかし残念ながら・・・彼はよく透る声で音楽的にもリズム的にもきちんと正しく歌え、かつきわめてはっきりと言葉を発音できることを自負していた。しかしこれだけでは充分ではないことを、私自身驚いたのだが、私は初めて経験した。」
  • 「彼に自分の課題がどのようなものであるのかということをその気になるように解らせる、といった最低限の試みでも、私はすぐに、それは不可能であるという見通しの前に、たじろいでしまった。」
    • 続きは引用しにくい文章なので適当に要約するけど、歌手達が作曲家の要求した効果を出せず意図が伝わらずに単にだらけた印象を与えるので削除または短縮した部分が存在するらしい。それらは以下の箇所である。
    • また、ヴォルフラム役の歌手も、作曲家の要求を適えることは非常に難しいと言い、作曲家本人が歌ってみせても、それをまねることすら出来なかったが、こちらは自分なりに問題に取り組み(ただし作曲家から指導を受けるのではなく自力で取り組みたいという申し出が行われ実行された)、当日までに満足する歌唱を提供したらしい。ここでの問題は作曲家の要求するものが、それほどまでに難しく、かつ、目の前でやってみせても超えられないものを含んでいるということであった。
    • 歌手が本来表現すべきものを表現出来ず、また妥協による削除も行ったので、誤った姿で伝わってしまった部分もあった。それに関する皮肉の混じった記述。
  • 歓喜も悲哀も常にエネルギッシュに表現すべきわが英雄は、第2幕の最後で従順な態度で哀れな罪人としてこっそり出ていって、そして第3幕では静かなあきらめを見せつつ、心からの同情を呼び覚ますことを狙った態度で再び現われた。彼が再現する教皇の破門審判だけが、この歌手のいつものこぶしのきいた朗々たる歌唱によって、伴奏のトロンボーンが歌手にかき消されるくらいだったと喜ばれるくらいに、大変エネルギュッシュに歌われた。」
    • 大声大会だなあ。でも今日はじめてオペラを聴く観客でも分かるのって、その部分なんだよね。
  • 「最も難しい役は間違いなくタンホイザー役そのもので、これはドラマという表現にとってもそもそも難しい課題のひとつであるかもしれないということを告白せざるを得ない。・・・タンホイザーは・・・つねに全開状態なのである。彼はヴィーヌスの腕のなかに完全に溺れてしまうのであり、・・・そして彼は後ろ髪を引かれるなどということは全くなく、・・・ついには子供っぽい宗教的な後悔の念が涙とともに爆発する。・・・彼が望んだのは後戻りすることではなく、・・・偉大で崇高なものに向かって突き進むことであった。そして、今彼の気持ちにただひとつぴったりとくるこのえもいわれぬものが、突然、"エリザーベト"という名前で彼に迫ってくる。・・・彼は幸福感に満ち溢れた生きる喜びに歓喜し、愛する人のもとに飛び込んでいく。・・・熱烈な身を焼き尽くすような生きる情熱。――この情熱によってかつてはヴィーヌスの愛を受けたのであり、・・・タンホイザーは自分の包み隠しのない誠実な気持ちを直接に表現することしかできず、この世界には強い違和感を感じざるをえない。・・・彼がヴィーヌスの騎士であることを声高らかに宣言するとき、彼の気持ちはエリーザベトに対する彼の愛のためだけに戦っているのである。・・・無上の喜びが度を越して彼はむしろ苦悩に憧れている。・・・ただ「罪のために流した彼女の涙を和らげるために」彼は猛烈な苦しみにも耐えながら自分の救いに至る道を捜し求めている。・・・しかし彼の悔恨、罪の償いという感情、救いの希求が心からのものであり、完全なものであればそれだけ、救いを求める過程で彼の前に現れた偽りや薄情に対する嫌悪感も一層激しく彼を襲ったに違いなかった。・・・喜びや快楽への憧れから再びヴィーヌスベルクを捜し求めるのではなく、軽蔑せざるを得ないあの世界に対する憎悪が、すなわち絶望が、彼の"天使"の世界から自分を隠すことに彼を駆り立てた・・・命を賭けた信仰厚い知恵でこの呪われた人を解放すること・・・タンホイザーは瀕死となってこの愛に溢れた好意に対して彼女に感謝する・・・彼のことを羨まずにいられるひとはいない。誰もが、全世界が、そして神でさえ、彼のことを祝福して語らざるを得ない。」
  • 「誰も(現在および過去の最もすぐれた俳優でさえも)、私が今述べた性格付けで求めているように、タンホイザーの完全な演技という課題をきちんとこなすことはできないであろう・・・そしてオペラ歌手がそれをこなすことをどのように可能と考えているのか・・・その種の課題の実現はまさに音楽だけに委ねられているのであって、そして音楽によってのみドラマティックな資質のある歌い手がそれをこなすことが出来るのである。」
  • 「私はとりわけタンホイザー役の歌手にオペラ歌手としてのそれまでの彼の地位を放棄し、忘れることを求めた。・・・その発声器官のまさに犯罪的名教育の結果、劇場生活を続けているあいだ中ただ、歌い方のきわめて細かい細部のみにこだわり、かつ自分達の声域のことにしか注意を向けないのだ。つまり彼らにとって、ト音や変イ音がきれいに出るかどうかを気にしたり、嬰ト音やイ音がきちんと"すわった"かどうかに一喜一憂する以外は、舞台で何が起ころうとほとんどどうでもよいのだ。」
  • 「たとえばマイアーベースのオペラでは、私が問題にしている現在のテノール歌手の特徴が全編に渡ってきわめて抜け目無く、手段と目的となって不変のものと考えられている・・・つまりそういったオペラでのこれまでの成功に支えられて、普通のオペラの上演に加わり、そして人気を獲得していくのに必要であったと同じ表現方法で、タンホイザーを演じようとする人は、この役に似ても似つかないものをやってしまうだろう。」
    • これらは初演のときのタンホイザー歌手が作曲家が必要不可欠と考えるものをどうしても実現出来ず、そこには超えられない断絶があり、革命ともいえる変化が必要だった(そして、それは起こらなかった)というエピソード。こう書くと、読者はよっぽど鈍感で、極端な棒読みかつ声質頼りの歌手を思い浮かべるかもしれない(いわゆるテノール馬鹿?ちょっと違うか)。しかし私は、彼は、今日そして近年の歌手の平均からいって特に鈍感ではなく、世界的な劇場で主役を務めるクラスの歌手だったろうと思う。つまり、私は、今日のそういう評価を得る歌手であっても、殆どが作曲家の言うこれに当て嵌まると感じている(そして、ワーグナーが例として挙げたように、それが正解又は意図通りであるジャンルもあるだろう)。また、残念ながら、多くの聴衆にとっても、それはどうでもいいこと、もしくは、認識せずゆえに存在しないも同然のことで、相変わらず人々が注意を払うのは声のことばかり、表現ということでは、なんとなくそれっぽかったら(それが上述の間違って伝わった例のようなそれらしさであっても)それでいいのだと思われているように感じる。