DKTパルジファル(3)

(1) (2) の続きです。さくさく行きましょう。時系列レポはさっさと終えて、全体のインプレッションを書きたいのです。ロンドンのことも書きたいし。

そういうわけで赤い粘膜っぽいものにパックリ飲み込まれ*1パルジファルには花の乙女のソリスト陣が、コピーの男の子(一番年上の子)にはコーラス陣が挑んでの誘惑合戦になります。ちなみに花の乙女達の服装はなんかSFっぽくて色っぽくはない。パルジファルはベビーベット毎ぐるぐるされてるくらいで、メインは男の子の方で、上半身脱がされくらいまでは行きます。ぱっと身ハイティーンくらいにしか見えないけど、さすがに本物のティーンを舞台上でこういう文脈で使うとマズいのか、脱ぐと胸毛バッチリ・・・昔はこういうシーンはツルツルに剃ってたんだけどねえ(何故そんなことを知っている?←DRの古いTV放送見てるから←アナセンのもパヴァタルさんのも見た。ビリエルさんのを見たことが無いのが心残りだ←何を言ってるんだ何を←赤い粘膜っぽいものの毒にあてられたということで)。

いよいよ真打ちクンドリが登場すると、セットの奥からクイーンサイズのこれまた赤いベッドがズドーンと滑り降りて来ます。露骨ですね。そんでもって、宥め賺して色々やって、股間摺り合わせくらいはやってました。んでもアナセンだから全然エロくはないんだよね。体型のせいばかりではなく、何もかもが、というか存在自体が。ところでクンドリが出てくるちょっと前に、それまでは襟の大きな子供っぽいシャツなんか着てるパルジファルにジャケットを着せて大人への準備をさせるんだけど(ジャケットは花の乙女達がその辺から出してくる)、このパターンは以前にも見たと思ったのでした。こっからは割と普通で、槍を投げて止まるところはコピーの男の子達が出てきて、順々に受け取ってパルジファルに渡すくらいで2幕は終わりです。


3幕は古道具なんかの散らばった部屋で白衣のハゲ・・・もといミリン・グルネマンツが語ってるところに、なんか人物のシルエットが見えるのだが、この状態だと腹が強調されて妙におかしかった。くすくす。白いもんでグルグル巻きになったパルジファルが出てきて、それを取るとざっくりニットみたいなもんを羽織った姿になる。足を洗ったりするのは、その辺に転がってる鎧やら鏡やら火の点いた蝋燭やらでなんとなく人型を作って、そっちに向かってやってた。このシーンは見栄えはするが、だから何?という気も。キリスト教に造詣が深いと意味が分かったりするのだろうか。あとなんか変わったことしてたかもしれないけど、あんま印象にない。アンフォルタス達のところに行きましょうということになって、道中花を持って会話するところが(歌唱的に)晴れやかに穏やかで、これまで意識したことはなかったのに、印象に残った。

もう一度セットに乗ってズンズン迫ってくるパジャマ包帯男達。今度は歌唱から荒んでいる感じがして、この集団が危機にあることを感じさせる。いよいよ聖杯の木箱に近付いて、釘抜きの騎士が構えると「ちょっと待ったー」するアンフォルタス。んー、ここは迫力が欲しい。槍持って現れるパルジファル。こんときのアリアの入りをピアニッシモにはじめていて、ものすごいすんなり来た*2。槍に癒されるアンフォルタス。クンドリはどうしたかイマイチ記憶がないな。その場に崩れるように倒れるって普通の処理だったのではないかと。んで、聖杯を開けて、また箱から箱を一通りやって、最後のご本尊を手にすると、アリアの後奏のあたりでグワシャと壊す。それまでの舞台では大体、グルネマンツは上手に、パルジファルは丁度その対称の位置となる下手に陣取っているのだが、いつの間にかグルネマンツがそこからいなくなっていて、聖杯の空虚さを暴いたパルジファルはグルネマンツの位置に陣取り、白いパーカとズボンで全身真っ白な現代の格好をした若い兄ちゃんが出てきて、それまでパルジファルのいた位置に座る。その状態で幕。


まあこんな感じでございました。アナセンはグワシャと壊すところが気に入っているそうだ。最後の白い兄ちゃんは何者なのか知らないそうだ。演出家は出演者に説明しないのかー。配置から言って、パルジファルのさらに後継の暗示なんだろうけど。まだ生まれる前のローエングリンか?

うーん、そんで、なんというか、分かったような分からないような、雰囲気はそれっぽいけどやっぱり分かってないような、そんな後味でした。絶対値で悪い公演じゃないし、それどころかその後で他の録音聴いたりすると断トツでマシに思えてくるような出来だったのですが(音楽面は)、しかし、それでも、やっぱりDKTで観たい舞台とは違うというか、少なくともこれまでDKTのワーグナーは、舞台を観ている感じがしなくて思わず自分がその世界に生きているような、うっかりそこに自分の人生を見出してしまって思わず自分が慌ててしまうような、そんな心の襞にぴったり入ってくるような、そんな舞台だったんです。そういう感覚にはなれなくて、最後まで舞台を観ていた感覚のままでした(って当たり前ですか)。今の世界標準で言ったら必ずしも悪い舞台じゃないんでしょうけど、でも、私がDKTに求めるものとは違っていました。


というかですね。あのセットは映えるし、見栄えがして新しい感じのするシーンも多々あるでしょうけど、私は言いたい。グルグル廻る巨大なセットやそこに投影されるヴィデオ映像、棒立ちの合唱やワイヤー吊りになって上から降りてくる人間なんかを見るために私はここに来たのではなーい!!なんかこの演出、歌手の個性を殺す演出なんですよ。いつものDKTの演出と比べると、ですけど。そこが、どうもなあ、と思うところです。花の乙女なんか、それぞれの人をよく知っていて個々に楽しみにしてたのに、誰がどれなんだか全然分からないし。他のメインソリストも、どっちかというと誇張され単純化された人物像の枠の中で動くことを規定されていて、なんか生き生きしないんですよ(しつこいようだが、DKTの公演としては。今の世界標準として見たら、まあこんなもんかなという範囲)。

他の公演で聴いて個性的な印象を残した歌手でも、なんかこの演目に関しては印象が薄いんです。なんか、そうならざるを得ない何かに支配されていたような。2回観たんだけど、どうもそうなんですよね。元々パルジファルって演目が、登場人物が淡い色彩の中で生きてるような、うっすらヴェールがかかったような、そういう性格もあるのかもしれませんが。ただ、そう思うこと自体がまだよく理解出来てないゆえで、「そういうことだったのか!」と思う日が来るのかもしれません。よく分かりません。

KWはこの演出を今後数箇所で上演する予定があるそうで、何処でやってもそこそこの出来に見せるためには悪くないプロダクションなのかもしれません。セットに多くを頼って、人間の動きの絶妙さではなくてアイディアの新しさ(奇抜さ、と言ってもいい)を印象付けるという方向性は、どこで誰がやってもそこそこの見栄えがする安全な演出なのかもしれません。しかし、よりによって、なにもここでやらなくてもいいじゃないか、という印象でした。それに、理解が浅くて、それなのに思わせぶりで、それは客の理解不足を宛てにしてるからイライラするんです*3

これまでDKTの上演を観る度に、色んなことに気付かされて、それは作品への理解が深まったということだけでなく、自分自身の人生へのヒントをもらうような強い経験だったんですが、それでDKTである演目を見るとそれでもう充分な気がして、もうあまり余計なものを入れたくないような、自分の中でその作品を封印したいような、そんな経験をしてきたのですが、パルジファルに関しては腑に落ちなかったし封印出来なかったと思います。

*1:セットがあまりに巨大なので客席はそんな気分になる。

*2:後で録音とか聴き直して思ったんだけど、いつもああしてるわけではないんですよね。

*3:実際それで通ってしまうし。