悪平等思考とその利用方法

と書きつつ、悪平等的な発想って日本では人気ある(・・・いやちょっと違うか、受容されやすい?)んだろうなーと思うのだけど、なにか訴える→もっとひどいの例があるんだから我慢しろとか遠慮しろとか、極端な例になると、もっと酷い目に合ってる人に失礼とかいう主張が出てくる。そんなん言ってたら世の中一番酷い例に合わせて後退してしまいますがな、と思ったりするのであるが、ご本人真面目で、ああいうのが自然に出てきちゃう気質っていうのが、今がこうなっている所以であったりするんだろうなあと、いつものごとくこの状況は民意の反映であるから仕方無いじゃないかと思ってしまったりするのである。

なんかさー、京都市の件とかも、結局、素直に第三者委員会の結論に従えば、同じ機能が、景観も文化財も費用も三方よしで実現出来るわけじゃないですか。それを何故わざわざ曲げるのかと思うわけで、そこで、おろかにも小賢しい私なんかは、高さ規制のスケープゴートにしたいんじゃないかとか、折角の工事のチャンスだから工事費用を膨らませたいんじゃないかとか、いろいろ(不正ではあるが一応利益追求に基づいた理由を)考えるわけだけども、最近また別の可能性として、決してまともなことをやらない、いつもまともなことをしないことにしておいて、真っ当に物事が進まないのが当たり前のことであって、今回だけが特に酷いわけではなくて世の中いつもこんなもんということにしておくこと自体が、このマゾっ気のある悪平等思考の行き渡った社会でいつでもそのカードを切れるようにしておくメンテナンスとして有効なのであって、あまりにもそんなことばかりあると一つ一つの案件に対する労力も削げるし関心も集まらなくなるし一石二鳥で、常に委員会は無視され、結論は曲げられ、普通にやったらすんなり行くことも強引なプロセスでねじ伏せ、世の中が真っ当に進むなんて幻想を一般市民に決して見せないこと自体が、自己目的化しているんではないか、そこは彼らが決して譲らない砦であるのではないかと、そんな被害妄想ちっくな疑いが念頭に湧いてくる今日この頃です。この疑いと、ただの無知・馬鹿・センスレス説*1と、どっちが正しいんでしょうか。


どうでもいいが、こういう行政批判なんかをやるときは、相手があまりにも悪いという主張だと信憑性が無くなって支持がとれないので10割悪くても5割くらいに見せることが支持を得るための方便として必要だというのが持論なのですが、今日はフルスロットル行ってしまった。某市議の回答が私の予想をはるかに上回っていたからなあ。

*1:単に音楽のことを知らないから、文化的なセンスがないから、変な計画になる。