音楽編@ROHジークフリート

そしてこの日は、歌手がダメだったー。まず開幕前にホルテンが登場。アルベリヒのヴォルフガング・コッホが歌えないので、演技をコッホがして、ヨッヘン・シュメックベッカーが歌うとのこと。余談だが、こうやって見ると、彼はあそこにあのシチュエーションで立つには(見た目の問題として)若過ぎるねえ。10年前にDKTのオペラチーフ(日本的には芸術監督)に抜擢されたときも若かったんだけど、今でさえまだ若過ぎる。

そして一幕。ジークフリートとミーメの二人とも声楽的な響きがなくって喉声みたいな感じ。一幕が一番酷くて後半はマシになったかもしれないが、公演を通してそんな感じだった。これは残念。ミーメは見た目もいかにもな小物の悪役だし、歌も嫌らしく「ヒッヒッヒッヒッ」みたいな感じ。ミーメと言えば一般にこういうもんなのかもしれないけど、これを聞きながら私は、記憶の中のお気に入りのミーメと比べながら(複数いる)、たとえ悪役でもシンパシックに、つまり「彼は彼なりにああするしか無かった」とか「自分もあの状況に置かれたらああするしかなかったのでは」とか思わせてくれるような表現を求めているのだなあ、と自覚した。つまり、主人公や正しい存在だけじゃなくて、悪い奴ずる賢い奴つまんない奴も含めて、その場のキャラクターに同時に感情移入して、それぞれの必死さを、それぞれの人生を感じられるようなパフォーマンスこそを求めているのだ。もっとも、悪役をシンパシックに歌うと、大抵は、彼はこのキャラクターを理解していないという評が出るもんなんだけどね。でもその見方は表面的だと私は思う。

ジークフリートのヴィンケは、実はケルンのワルターマイスタージンガーに続いて2度め。ケルンのときは、私が求めるソフトでデリケートなラインには欠けるものの*1、声自体の魅力や押し出しは割とある方だったから、これは予想よりずっと悪かった。ジークフリートだからと力みが入り過ぎているのと*2、やっぱりホールがデッドで、そこにさらにオケにマスクされる効果も加わって声の成分が消されてしまっているからなんでしょうね。声自体は、ダミ声までは行かないものの、やっぱりガチャ声。つーか比べる相手が特殊過ぎ。ただヴィンケは、バイロイトが最近使うようなジークフリートと比べると、正確さは比較的あるだけまだ救われる。表現については、後ほど。

ここで順番をすっ飛ばすと、同じことがブリュンヒルデを歌ったスーザン・ブロックにも言えて、私は彼女はマンチェスターワルキューレで聴いて、フォームがしっかりしていて感情のドライブを声楽的に表現出来る*3とてもよい歌手だと思ったんだけど、ROHではさっぱり冴えませんでした。同じようにデッドな空間とオケにマスクされて声の微妙な成分がキャッチ出来なくなってしまって、彼女のような繊細な成分が魅力となる声質には不利なのでしょう。マンチェスターのレポでは、「光の筋が目の前を通ってて、周辺にも光を投げかけていて、その境界はほわほわしてはっきりしないのに中心には確実にフォーカスを作る」と表現しましたが、その周辺がマスクされてキャッチ出来なくて、中心だけが微かに見えるから、すごく痩せた音に感じるんですよ。彼女の得意の絞った音からの開放という技も、詳細が聴こえないとなんだかワンパターンに感じてしまって*4、こう言ってはなんですが、自分より耳の良くない聴衆にとっては、こういうスタイルの人はいつもこんな風に聴こえているのかもなあ、と想像したりしました。もちろんROHの空間でも素晴らしい分解能を持つ耳の持ち主には分かったかもしれませんが、私には限界でした。たまたま以前の歌唱を知っていたから欠けた部分を想像しながら、こういうことかなと思って聴きました。

こういう感じで、ROHの箱におそらく起因するであろう影響によって、ここでは、なんだか歌がテイストレスになっちゃうんですよ。これを思えばDKTとかパラダイスですよ。なんせ新劇場ですら1400席程度で、もはや馬蹄形ですらなく半円状で奥行きが浅く、劇場のどの場所に座っても、繊細なニュアンスと音楽に包まれる感覚を同時に味わうことが出来るんですから。

さすらい人はターフェルで、さすがに声楽らしい響きは上の2人よりずっとあるし、声自体の魅力もずっとあるんですが、これはラインにも共通の感想ですが、私はヴォータンあまり合ってると思わないなあ。もちろんダメじゃないけど、なんつうか、彼の魅力と役の要求するものが全然マッチしてなくて、果てしなく勿体無い感じ。聴けるなら別の役で聴きたい(そして別の箱で)。まあそれを言い出したら、今日誰がヴォータンを歌うんだってことになっちゃうかもしれません。私は彼の魅力は(あの外見に反して?)繊細で柔らかなフレージングにあると思うので、それが活きる役で聴きたい。

結局、今日一番良かったのは小鳥かなあ。小鳥は声質も歌唱自体もチャーミングで良かったです。アルベリヒの代役は舞台の袖寄りに譜面台を置いて歌って、そんなに悪くないけど、とりわけ良くもない。エルザは良かったと思う。あと誰か忘れてないかな?今日の公演は、たぶんラジオで聴いた方がよく感じるんじゃないかと思います。


で、私はこのジークフリートでどうしてもどうしてもダメな理由があって、ステファン・ヴィンケが素の坊主頭で小太りくらいで(まん丸なオペラ歌手よりは断然マシな体型で)、それでたぶん世の中的にジークフリートはこうであるべきと思われている「うぉぉぉ〜」ってノリで歌うもんですから、知恵足らずの乱暴者にしか見えないわけですよ。いや、世の中的にはそれが正解なので彼の責任じゃないんでしょうけど。そこが、どうしても、体はデカくなって頭の成長は付いてこなくて、でも性に対する興味は出て来るお年頃の、特殊学級の男の子みたいに見えてダメでした。ついでに坊主頭で小太りなのも共通でした。どうしても、子供の頃のそういう記憶と重なってしまって。いや、3幕とか2幕のあそことかなければいいんですが、そこを前提にすると受け付けませんでした。なんで金払ってこういう思いをせなあかんのか。

これだったら、まん丸で人間っぽくない方が全然いいよー。というわけで、下手にリアルさがあると嫌な方に転ぶこともある(?)という教訓でございました。

*1:特にこのときはダーヴィットとエヴァが絶品で、ザックスとマクダレーネも邪魔しない感じで、だから3幕の重唱は素晴らしくて、そこにヴィンケのワルターが入ってくると台無しだったのだ。

*2:それって私に言わせれば大誤解なんだけど、ここ数十年ジークフリートといえば、いやヘルデンテノールといえばそういうものということになってしまっているので。

*3:これすごく難しい。すごく絞った音からものすごい勢いで開放しないといけないので、半端ないパワーが要る。通じない客が大多数なので、そのパワーを最後の音の引き伸ばしなんかに回した方がよっぽどウケるので、やってる人は偉いなあと私は毎度思う。

*4:全体が見えれば魅力的な絵だとしても、6割方が隠されてしまっていて残りがチラチラ見えるだけだと欲求不満になるようなイメージ。