ボリス・ゴドゥノフ考(2)

ボリスの読解で重要なのは、もうひとつの主役と言われている民衆の位置付けです。「もうひとつの主役と言われている」の部分を、文献を引きながら紹介します。現在新刊が入手出来ない文献なので、長めに引用します。

ボリス・ゴドゥノフ (岩波文庫) 訳者による解説より
戯曲の題名は『ボリス・ゴドゥノフ』であるが、必ずしもボリスを主人公と考える必要はない。ボリスは専制政治の―或は権力の―象徴である。この権力に対置された人民こそは、戯曲の真の主人公であろう。この作品の表面に現われた限り、人民の運命は悲劇的である。支配階級は自己の有利とする政権を樹立するためには、人民の支持を必要とする。そのためにはありとあらゆる欺瞞行為がおこなわれる。だが一旦権力を握ると、人民の幸福は棄ててかえり見られない。人民はただ政治闘争において利用されるだけである。人民はついに歴史の主役を演じることがないのであろうか?

戯曲の結末はそれに答えるにきわめて暗示的であるように思われる。

モサリイスキイが言う、「なんでお前たちは黙っているのだ? 叫ぶんだ。皇帝ドゥミトリイ・イワーノヴィチ万歳!」。ところが人民は「黙して答えず」である。初め人民はそれに応じて皇帝万歳を唱和することになっていた。しかるに作者は後に現行のように書き改めたのである。僅か数語の書き変えによって戯曲の結末は完璧となった。この場面の「沈黙」―それは人民の最大の反抗でなければならない。「沈黙」した人民は、やがて社会的条件の成熟とともに、自らが主役となって歴史の活舞台に登場する可能性、潜勢力を大きく孕んでいるのである。

プーシキンが反政府的・親民衆的な立場であったことはよく知られており、それゆえに文庫の解説のような読解がなされてきたとは思います。実際、ボリス以外の描写を読む分にはそれでうまく納まるように思います。しかし肝心のボリス本人に作家が与えた描写が、違うんですよねえ。ここがプーシキンの大いなる二枚舌であると私は読みます。

可能性として考えておかなければいけないのは、この作品の書かれた時代には現代のような表現の自由は確立されておらず、文学作品が流通するために検閲を受けるのはもちろん、戯曲という形式上より厳しいチェックを受けた*1であろうことです。つまり歴史上のツァーリを悪し様に描くことは出来ず、当局の検閲をパスするために、ボリスに立派な性格付けを与えたという可能性です。しかし、知られているところによると、この戯曲の完成後に当局から上演許可を得られなかった状況下で、プーシキンは書き直しを拒否し長い間上演出来なかったそうですから、この動機のためにドラマの主要部であるボリスの性格付けを変えた可能性は極めて小さいのではないかと私は考えます。

プーシキンはこの作品を書く前に、ツァーリズムを批判する詩を書いたとの理由で田舎にて遁世生活を送る必要に迫られています。遁世生活の際に書かれた作品がボリスです。

プーシキンツァーリズム批判がどんなものであったのか、現時点の私は知りません。本当はそれを知らないと作家の意図に踏み込むべきではないかもしれません*2。ただ、文庫やオペラブックスの解説のような権力者=悪、民衆=善とするような二元論ではないと推測しています。

というかですね、ツァーリズム批判をしながら、正統なツァーリの血統を絶えさせたボリスに罰が下るという勧善懲悪物語は描かないと思うんですよねえ*3。そもそもこの話、ボリスが滅んで台頭する偽ドミトリは偽なんだし、勧善懲悪的に読むとすっきりしないです。勧善懲悪というのはカラムジンの与えた筋書きらしいですが*4

文庫の解釈は、共産ロマン主義に過ぎると思いました。それを描いてないってわけじゃないけど、そういう要素ももちろんあるけど、他の要素もある。例えば、大局的な判断が出来ず、流されるしかない、偽ドミトリについてしまう民衆の姿とか。民衆は必ずしも善ばかりの存在ではない。無力で愚かな、道を誤りもする、当たり前の普通の人間です*5

結局、玉虫色と言いますか、色んな要素を詰め込んで、各人が自分の見たいところを読み取れるようにしているところがこの作品の面白いところなのかなと思います。勧善懲悪ストーリーを見たい人にとってはそのものなんでしょうし、共産ロマン主義者にとっては民衆が主役であるし、権力者も民衆も全て呑み込んだ歴史そのものが主役とも読めるし。私の立場は、この最後の歴史そのものが主役です。

*1:演劇は人間の感情を瞬間的に高め、しかも演劇の場そのものが同様の思想を持つ人間が集う場となりやすく政治運動に結びつきやすく、これを警戒することはつい最近までの常識でした。

*2:カラムジンをチェックして、どの部分がカラムジンの著述の範囲内で、どの部分が作家の創作かを明確にするステップも必須かもしれません。

*3:もちろん、ツァーリの血統云々とは別個に、殺人、特に幼児殺しの罪を問うことはあり得る・・・少なくとも論理的にはおかしくないし、可能性としては否定出来ないんですが、そう考えちゃうと創作活動の動機としては弱いと思うんですよねえ。どうですかね。

*4:オペラブックスの解説によると。

*5:ちょっと話ずれますが、無力ということでは、事実を知らないし、知りえる手段もない状況が、本当に無力なんですよね。知は力の基本をなすとつくづく思います。