キング・フィリポのドラマツルギー

たまに聞く、「これドン・カルロじゃなくて、フィリポ王の悲劇にタイトル変えた方がいいんじゃね?」という期待に応えて勝手に考えてみました。

自分に歯向かうロドリーゴに彼は何を見たのか。何故カルロとエリザベッタのことを探る役割をロドリーゴに与えたのか。

ロドリーゴは、王がなりたかった自分である。しかし王には次の項で述べる制約があるので、ロドリーゴのように振舞うことは出来ない。そのため、彼は「本来なりたかった自分」の素質を持つロドリーゴに理解されることを望む。その手段が、王権を近くで見ることであり、とりわけ宗教的権威と王座の関係を理解することであり、王の個人的な悩みに触れることであった。

フランドルの処刑の場面で、彼は何故そっぽを向いているのか。

異端者の処刑は、彼によって決められたものではなく教会の権威によって決められたものであり、彼が変えられる問題ではなかった。王の座が宗教的権威によって担保される、即ち、王とは、武力や財力、政治力によって獲得された置き換え可能な存在ではなく、神によって認められた特別な存在であるというストーリーに乗っている以上、王は宗教的権威を超えることは出来ない。王の地位が武力や政治力によって決まる実力主義の世の中であれば、王権は常に、より武力や政治力のあるものによって取って変わられる可能性を含むので、神を引き合いに出してその地位の安定を図ることは必須だった。王になるということは、宗教的権威に従うことと引き換えであり、即位の際にそれは決まっていたのだ。彼はただ執行者としてそこにいるだけである。

フィリポの「わしが王冠を頭上に頂いたとき、わしは神に誓った、異端者には火と剣を持って死を与えると。」のくだりは、この背景を、これ以上ないくらい短く簡明なセンテンスで示している*1

フランドルの使節が現れ、カルロやエリザベッタ、民衆が一緒になって王に慈悲を乞う場面は、彼にとっては四面楚歌の状況である。

彼は、3幕で何故大審問官を呼んだのか?

カルロの処分を止めて欲しかった。自分の判断によって止める(という形式をとる)ことが出来ず、権威による口実が欲しかった。だから「亡命か・・・・斬首か・・・・(前の選択肢を選んで欲しい)」「キリスト教徒の私が息子を死罪にして許されますか?(許されないと応えて欲しい)」という問いかけになっている。この問いかけ自体が、彼が若いときから世話になった大審問官に対する甘えの表れであり、彼の生きた時代における良心の頂点としての存在に対する彼の期待であり、そして、彼の見通しの甘さと素直になれない性格を物語っている。

しかし大審問官は一枚上手で、決してフィリポの甘い期待に応えることはせず、それどころか、この機会を使ってロドリーゴの告発を行うという手段に出た。

ロドリーゴの件は、カルロを救う口実をもらおうという甘い期待を持って大審問官を呼んだフィリポの予想外だった。だから彼はここで感情を顕にする。1幕でロドリーゴに「大審問官に気をつけろ」と言った彼であればこのことは当然予測出来る筈で、その可能性は充分あるのだから、大審問官にこの手のことを口にする機会自体を作らせないように立ち回ることこそが必要だった。しかし彼は息子の処刑(をしなければいけない状況)に動揺する余り、このことが念頭から抜け落ちていたのだ。

ゆえに大審問官に向かって「忘れてください」という台詞が登場するし、最後の「王座は祭壇に屈さねばならないのか!」は、このことを忘れていた自分に対する憤りを持って表現されるべきである。

3幕でエリザベッタが気絶している間は優しく支えているのに、目が覚めた途端にいなくなっちゃうのは?

素直になれないんです、そういう人なんですよ。

でもみんなの前では常に強面だよね?

だから誤解されやすいんです。

そうやって思い返してみると「扉を開けろ!わしの命令だ!従うのだ!」は、ずいぶん子供っぽい言動ですね。

あなたもフィリポ王の魅力が分かってきたようですね。

そんなにカルロを処刑したくないんだったら、終幕で見逃せば良かったじゃないですか。

そこはつまり、カルロとエリザベッタが、男女の仲としての既成事実は無いとしても、心が通じ合っていることを知って、見逃せなくなっちゃったんじゃないですか。世の中には知らない方がいいことってありますよ。


まあそういうわけで「素直になれない王萌え〜」気分を盛り上げて頂ければ幸いです*2

*1:つまりドン・カルロとは、絶対主義の代表的君主フィリペ2世の王権神授説下の葛藤を描いた物語だったのだあっっ!!

*2:オチはそれかよ!