ランケ『ドン・カルロス−史料批判と歴史叙述−』覚書

とっくに廃刊になってしまった本を図書館の書庫から掘り起こしてきたので、返却する前に覚書を残しておきます。

ランケ『ドン・カルロス−史料批判と歴史叙述−』昭和50年発行、創文社祇園寺信彦訳

I 批判的論述

ランケの時代にアクセス可能な史料(残された書簡や、第3者の手による書物等)を読み解き、信頼に足るものそうでないものを分析した文。これを読むと逆に、まあ、なんて多くの憶測と噂が尤もらしく流通したものよ、という感想になります。フィリップ王が自分の姪と結婚するために前の妃*1を殺したとか、カルロス王子は己の父たる王の殺害を企て、そのための処刑されたのだとか、カルロスとフランドルの因縁とか、そんな話が出てきます。ランケはこれらの史料の読み解きを行い、その信頼性について検証し、第2部であるドン・カルロス伝の下地を作ります。

オペラに出てくるカルロとエリザベッタの恋愛沙汰というのは、聖レアルの叙述を元にシラーがフィクションとして発展させたもので、この聖レアルなる人が歴史家でもあり個々のエピソードから全体を作り出すことに長けていたためにややこしいことになるのですが、彼の叙述というのは部分的には実際に合ったエピソードを含むものの、主要な登場人物の職責などが史実と異なり、とても歴史叙述を意図して書かれていたとは思えない面があり、フィクションであったとされています。ただ、ランケの記述から、この書の著述当時でもこのストーリーは人気があり、事実よりももっともらしい話として流通していた様子が伺えます。

II ドン・カルロス伝

こちらは一部の検証を踏まえて、カルロスの生涯について時系列を追って叙述的にまとめられたもので、一部の検証を信頼するならこちらだけ読んでもよいでしょう。この中で目に留まった記載を、以下に抜粋します*2

  • カルロスは度重なる近親婚の末に生まれた子であった。
  • 彼の父母は16歳同士で結婚し、両親が18歳の時に彼は生まれた。彼が成長しても彼の父は男盛り、人間としても充実した時期であって、若い王子としての活躍の余地があまり無い組合せであった。
  • 彼は生まれた時からひ弱で言葉も遅く、成長しても度々熱病に悩まされた。この持病のため、若者らしい成長経験や教育を充分に経ることが出来なかった。彼の成長のために必要な懲罰なども、彼のひ弱な身体を考慮して出来ない状態であった。
  • 彼の母は産後まもなくして死に、4歳から14歳までの期間に彼の父はスペインを離れていたので、通常の父母の愛情に触れることなく成長した。ただし父は母の無い子の成長のために、教育係を探し、報告を受けて細かく指示をするといったことをしている。
  • 成長するうちにカルロスには、当時の人が「大胆にして残忍」と呼んだ気質が表れた。同時に、この気質は彼の祖父と共通だと噂された。
  • 彼の祖父は神聖ローマ帝国王にしてカール果敢王の名を持ったカール5世であった。カルロスの名はこの祖父から採られた。カルロスは祖父に特別な親近感を抱いていた。少年期に祖父が訪問した際に祖父の武勇伝の数々を聞き、武名と世界の脚光を浴びる輝かしい生活に対する期待でいっぱいであった。しかし現実の彼はその期待に反するひ弱な身体に縛りつけられていた。
  • この頃のカルロスの風貌に関しては、年齢の割に余りに小さすぎ、美男ではなく彼の頭は途方もなく大きく、病気によって弱々しく痩せぼそだったと記述されている。
  • いくつかの事件を経ながらも彼は成長し、彼の父は彼を王位継承者として認知させるための準備にとりかかった。20歳になった彼は枢密院の議席を与えられ、一個の独立した宮殿を与えられた。
  • しかし、ここからが不可解なのであるが*3、彼は彼の行動を制限する父に不満を持つようになる。おそらくは彼が年齢なりの成長をしていない所為であろうし、また彼の持病の所為でもあろう。しかし彼が不満を持つ理由に関して本書は不充分であり、いくつかの断片的な些細な例が出てくるのみである。例えば、彼と彼の父に贈り物として届けられた馬が、彼の身体にさわるという理由で乗馬を禁じられていたために、全て父の厩舎に曳き入れられてしまった例が紹介されている。
  • 彼の結婚に関して、彼の父が決断をしないことも彼の不満であった。彼が結婚するに足りる成熟をしておらず、仮に強行したとしても役目を全う出来そうにないことが躊躇の理由であろうが、カルロスの目からは、父が彼に自由を与えないために結婚の話を進めないように見えた。
  • このような状況の中で、オランダ(フランドル)においてスペインから支配を受けることに対する緊張が高まり、特に宗教改革の理念が浸透しつつあった背景もあって、フィリップによるカソリックの厳重な執行を柱とする宗教政策に不満が高まった。これはカルロスにとって活躍のチャンスと映ったし、またオランダ側にとっても、フィリップと異なる政策を行う可能性が高いカルロスへの期待があった。具体的にオランダからカルロスへの接触もあった。
  • この時期にカルロスは、ミサに忘れずに出席し、教会と教団に対して敬意を表し、教会の務めを彼自身の務めと見做すことを師から忠告されている。つまり、それだけ彼はこの面をおろそかにしがちであったのである。
  • 彼の行動には、被害妄想とそれに基づいた行動、浪費、短慮、彼を取り巻く人々への従順やいたわりを欠いた態度、生活上の不摂生なども認められた。
  • オランダでの問題を解決するために、王はカルロスを伴ってオランダを訪問する計画があったが、最終的にアルバ公が武力とともに派遣された。カルロスは絶望し、錯乱状況に陥りはじめた。夜中にピストルを持ってうろつき、脱走の手配をはじめた。脱走先に関する具体的な証拠はないが、オランダは有力な候補である。
  • 決定的な事件は、宗教上のきっかけを契機に起きた。毎年の祝祭の前に免罪を受ける習慣があり、カルロスの懺悔のために祝典は延期されていた。彼は自身の懺悔僧と既に仲違いをしていて免罪を受けられなかったので修道院に赴いた。しかし彼の告白は、ある人を死に至らしめたいと思うほどに敵意を抱いているというものであり、あまりにも乱暴だったために修道士達に免罪を拒絶され、彼は免罪を求めて遁走する羽目になる。最終的に、死に至らしめたいその人が彼の父であることが判明し、これを打ち明けた彼は最後の逃走先を求めて艦隊の司令長官に接触し、このことが父王の耳に入ることになる。
  • カルロスの捕り物の記述が結構良いので*4引用しておきます。
    • 寝床に就いていた太子がざわめく音に目を覚まし緞帳を引き開けた時、彼はそこに彼の父とその隋員達とを見た。陛下と顧問官はなんで私を殺そうとなさるのか。殺しなされ、さもなくば自害して果てます、と彼は言った。いや、そのつもりはない、静かにするがよい、と王は言った。太子は暖炉に燃えている火中に飛び込もうとした。が、それを彼らは妨げた。彼は父の前に跪き、殺してくだされと切願した。そうこうしているうちに、彼は彼の部屋の窓々を彼らが釘付けにしているのを認めた。私は発狂者ではない、絶望者なのだ、と彼は叫んだ。何事も一切は太子の最もよきようにのみ取り計らうであろう、とフィリップは言った。「余が他のあることを命じるまでこの部屋に居るがよい。」
  • この後は簡単に。カルロスは監禁され、幼少時から悩まされていた熱病が再発し、緩慢な自殺ともとれる不摂生な生活を行い、監禁後半年ほどで死に至る。カルロスの監禁に関しては、当初理由は明かされず、諸外国からの問合せに答えることも口止めされていたが、最終的に、太子が王位継承者足る資格がないことを示したためであり、監禁は肉親の心情よりも国家の利益を優先させたものであるという説明がなされた。

*1:オペラで言うところのエリザベート

*2:簡単に抜粋したつもりが、長い。

*3:これはランケが不可解だと書いたわけではなく、ランケを読んでこれを書いている私にとって不可解だという意味です。

*4:とか言ってると不謹慎ですが。