オペラと記録/未来論風味

なんとなく普段から漠然と思っていたことを、これ読んで刺激されたので書いてみます。

METライブビューイング初体験「トスカ」@LINDEN日記
http://linden.weblogs.jp/blog/2009/11/metライブビューイング初体験トスカ.html
残酷な話ですが、録音も録画もしないオペラハウスやオーケストラは、どんなに充実した上演を現在やっていても、それは記憶の中だけにとどまり、やがて忘れ去られる運命にある。それが舞台芸術のかけがえのなさ、潔さだとも言えるわけですが。でも録音や録画は、未来の世代の鑑賞の対象となり、いつまでも賞賛され続ける。そしてそれが富を生み出すことになる。

あんなに労力かけて一つの公演を成立させて記録に残さないのは勿体無いなあと前々から思っていたわけですが、本当にそうですよね。公演はそのときだけですが、記録したものってのは時間を超えて人に届くし、その中でどんな可能性につながるか分からない。もちろん、記録に残せるものは全てじゃないけど。それでも。残さないとこの時間を超えた可能性がないわけですから。

それに、今のこの時代に起きていることを残さないのは、文化的な意味で勿体無いと思います。将来オペラがどうなるか分かりませんが、あんな贅沢な公演はもう出来ないって言われるようになってるかもしれないし、一昔前の人が黄金時代と言ってる状況が、将来の人から見た「今」かもしれません。嫌な話ですが、伝統芸術系は大なり小なりそういうことを考えておいた方がいいと思います。

私は色んなことが分かってませんけど、録音・録画をするための追加的コスト、録音・録画を公開することの影響(新たな集客効果 vs 録音・録画があることで満足してしまってライブに行かなくなる効果*1)、色々あるんでしょう。もしかしたら、やれるものならとっくにそうしてるけど出来ない事情があるんだって当事者の声もあるかもしれません。無神経なことを言ってたらすみません。


この関係で連想した話題をいくつか紹介します。

メトロポリタンオペラへ750万ドルの寄付@オペラキャスト
http://blog.livedoor.jp/sakag510/archives/51612332.html

鳥とオペラが好きなイギリスエディンバラのご婦人が、遺言でThe Wildfowl and Wetlands Trust(猟鳥湿地トラスト)とメトロポリタンオペラに750万ドル(日本円で今日のレートで6億7,402億円)を寄付したとのこと。

戦前から聞いてた土曜のラジオ放送がお好みで、よくニューヨークにも行かれていたようでメトロポリタンオペラが大好きだったようです。一方、自国の英国ロイヤルオペラハウスはそれほどお好きじゃなかったようで、寄付額は167,000ドル(1501万円ぐらい)だそうです。

ラジオ放送の存在が大きかったんじゃないかな。アクセス可能性って大事ですよね。遠方でも毎週アクセスすることが出来るという、その姿勢を評価したかったのでは。作風などのお好みもあったかもしれませんが。

一方で、映画館でオペラを配信する試みが、地方の劇場を圧迫しているという声も。距離の制約のために群雄割拠状態が成立していたところに、こういうメディアを使うと一極集中になりやすいということはその通りですよね。

THE SINGER’S STUDIO: P. RACETTE & S. BLYTHE  後編@Opera! Opera! Opera!
http://blog.goo.ne.jp/madokakip/e/1dbcce1c9fe34d6c10d569d556fa7fde
(質疑応答のセッションで)オーディエンスの方から、
”でも、NYに来るのが難しい人たちが、映画館でメトの公演を体験できるのはとてもいいことなのではないか?”
という意見が出ましたが?

SB: それはもちろん否定しません。でも物事にはバラ色の側面ばかりではない、ということを知るのも大切です。
例えば、HDのせいで、地方のオペラ公演や劇場が困窮状態に陥っている、というのも忘れてはならないことです。
HDを観に行く方が、地方の生公演を観るより安価な状況が出来上がってしまったから。

悪影響もある。でもこの流れは止められない。他の分野に比べて少し遅れたけど、他の分野で起きたことが舞台芸術の世界にもやってくる。運が良ければ、メディアの利用による一極集中と、それに刺激されたアマチュアリズムの勃興、そういった人達への教育と公演を両輪とすることで一極集中以外の部分は存続するところに落ち着くんじゃないでしょうか。


この後はどうなるんでしょう。音楽配信なんかでは、無料コンテンツvs有料コンテンツ論争、広告効果、デジタルコピー問題とネットワークの規模によるコンテンツの拡散がよく話題になりますが、私がこの手の話を聞いて思い出すのはクルーグマンの「有名人経済」という言葉です。多少抵抗しつつもコンテンツ無料化と拡散に歯止めはかからなくて、こういう形になっていくんじゃないかと思っています*2

ホワイトカラー真っ青@山形浩生による和訳
http://cruel.org/krugman/lookbackj.html
(有名人経済は一番最後に出てきます)

最後に、それでも人々はライブに足を運ぶということを。自分で一から書くとしんどいので、代わりにこちらの記事を紹介します。バーチャルリアリティ漬けのオーディオマニア的観点からも面白い記事です。

生の音楽・煮た音楽@月刊クラシック音楽探偵事務所
http://yoshim.cocolog-nifty.com/office/2009/12/post-440f.html


おっと書き忘れてた。一番最初に紹介した記事の前半に、映像収録に効果的な演出と舞台で観たときに効果的は演出は違うという話があって、これも大変だなあと毎度のことながら思います。方法論とか全然違うでしょう。映えるセットやメイクみたいなものも逆でしょうし。当面は舞台に焦点を当てつつ、段々映像向きにシフトしそうな予感がします。そうなったときは大会場のロックコンサートみたいにステージの両脇に巨大なモニターがあって、それをみんな観てたりして。まずは見切れ席への視界補助の名目で導入され、古参ファンがぶつぶつ言いつつも人々はモニターの存在に慣れていき、演出自体がモニターの存在を前提としたものにシフトして、それ無しではいられなくなり・・・なーんて筋書きが目に浮かぶようです。

いやこれ、全然笑い話じゃないんですよ。私なんか映画の画面に慣れきってしまってるので、平土間2、3列目に座っていても、人物の表情が(分かりたいレベルまでは)分からなくて不満ですもん。たぶんテーブル越しに2人で向かい合って座って表情が読めるくらいに近づかないと満足しないですよ、こういう人は。ホントまずいなあ。そんなあり得ないことを望むなんて*3。なまじっか見えそうで見えないところでストレスが溜まるから、逆説的に平土間前列は避けようと思うくらい切実です。にらめっこに負けるからってだけじゃないんですよ。

*1:私なんかは聴けば聴くほど行きたいものが増えるので、後者は全くピンと来ないのですが、結構あるのでしょうか?これ。

*2:ところで有名人経済のくだりはよく出来てると思いますが、表題になってるホワイトカラー層=高等教育の価値低下は、私は無いと思ってますし、コンピュータに深く関わってる人ほど無いと思うんじゃないですかね。想定してるタイムスパンによるけど。今日で言うホワイトカラー的な仕事に従事する人の割合が減るのは妥当な予測だし、高等教育以外のルートで成功する人が増えるのも確実で、益々そういうことが成立しやすい環境になっていますが、それは非凡な例であって、大多数の平凡な人のための底上げとしての教育は一層重要になると思います。何を持って高等教育とするかですが、教育を受ける期間が長くなったときのその後半を高等教育と呼ぶのであれば確実にそうなります。寿命が伸びると比例して教育期間が伸びます。寿命が伸びるのも教育期間が長くなるのも豊かになったことの結果ですけど。モラトリアムとしての教育期間の需要があって、豊かになった家計はリソースを割けるだけここに割こうとします。その長い教育期間が世間相場を形成するので、当の家計の主観としては人並みにするだけでカツカツで余裕なんて無いと思うでしょうけど、余裕の帰結なんですよ、これは。本文に出てくる家事従事業(これが職業として大きな地位を占めるようになるのは妥当な予測だと思います)も専門学校に通うようになります。しかし長いなこの注釈は。何が言いたいのかというと、紹介したからって全文を支持してるわけではないということで。

*3:これもまたバーチャルリアリティ漬けのオーディオマニア問題の一種ですな。