マンが語るワーグナー(2)

本日もマンからの抜粋です。前編はこちら

リヒァルト・ヴァーグナーと『ニーベルングの指輪』(1937年)

  • 伝説というだけでは彼には十分ではありませんでした。原初の神話でなければならなかったのです。中世のニーベルンゲンの歌――これはすでに現代的であり、歪曲があり、衣装をまとっており、歴史でありました。彼が意図した芸術に役立つほど民族の始原に属し、音楽的であるようなものでは到底なかったのです。彼は根源まで、太初まで、ドイツ以前のスカンジナヴィア的初期ゲルマン的な『エッダ』という神話の根底まで遡らねばなりませんでした。
  • 侏儒(こびと)が恐怖を描写する際に、これに答えて鳴り響くのは、『指輪』の世界にあって恐怖を生み出すすべてのものの象徴、つまり真の意味で恐怖を呼び起こし、人をたじろがすもの、岩を守護するもの、すなわち火であります。その火を、ジークフリートは恐れないでしょう。彼はその機会にも恐怖を学ぶことなく、火を突破するでしょう。
  • しかし同時にまたバックを奏でる音楽においては、やがて彼に真に恐怖を教えることになるものが、さまよい出るように暗く暗示されます。すなわち呪縛されて眠る女性への回想であります。この女性について彼は何も知りませんが、この眠れる女性を目覚めさせる者たるべく、彼は運命づけられているのです。この情景を目で見、耳で聴いている人は、前夜の終幕に連れ戻され、恐怖ということについてかくも理解を受け付けないジークフリートの魂の奥底で、これこそ本来恐怖を生み出すもの、すなわち愛、への予感が蠢いていることを理解するのです。
  • ジークフリートは、菩提樹の下で、自分の母はどんな様子をしていたのだろう、と夢想します。(中略)女人への愛のモティーフが、『ラインの黄金』第二場でローゲが語る「女の歓びと価値」の主題が、ここではオーケストラで想起されます。そしてジークフリートヴァルキューレの鎧を脱がせて、「これは男ではない!」という発見をする時、言葉になって迸り出るもの、それもまたこの母親像と女人への愛の心的複合体なのです。――「火のように激しい恐れがぼくの目を捉える。目がくらむ、目まいがする。誰に助けを求めて、助けて!と呼んだらいいのか。お母さん、お母さん、ぼくを思い出して!」と。
  • 一方では神話的な原始性と、他方では心理学的な、いや精神分析的な近代性というこの両者のような混合以上にヴァーグナー的なものはありません。(中略)彼は処女性の岩の周囲に火と燃える不安を回らせます。この不安を、根源的に男性的なるものが、目覚めさせ子をみごもらすという彼の使命に駆られて突き抜けて行きます。そして、おずおずと待ち望んでいたものを一目見た時、自分自身が生まれて来た根源である神聖な女性的なるものに向かって、すなわち母に向かって、助けを求める叫び声を挙げるのです。


さて今日は私がコペハンリングを聴いて「照れて書けない」と言っていたことを、マンの言葉を借りて書いてしまいました。それは、あのジークフリートのあの少年ぽさと、ムッターと言うとき*1に喚起される独特の感覚です。さらに、フェミニズム・リングがリングへのアプローチとして適切だと思った理由がここにあると言ったら贔屓の引き倒しでしょうか。

*1:これは全幕にまんべんなく散りばめられています。