二大苦手巨匠

私にとって二大苦手メジャー作曲家といえば、モーツァルトとベートーベンです。ところで昨日原始的な音楽と社会的な音楽というキーワードを思いついて、それぞれの苦手さのタイプが異なることに思い当たりました。モーツァルトは社会的に苦手で、ベートーベンは原始的に苦手なんです。感覚の話の過去ログから、それぞれの苦手さについて書いた箇所を再掲します。

http://d.hatena.ne.jp/starboard/20090714
ところが、こっから感覚の話になるのですが、どうもべートーベンはいまだに苦手でして。殆どの部分は大丈夫なのですが、苦手な瞬間が必ず入るのです。
その苦手というのはですね、なんというのか、自分の中に音空間キャパみたいなものがあって、殆どのクラシック系の音楽は大体盛り上がっても30%くらいのところをうろちょろしてるものなんですが、ベートーベンの場合、90%以上を埋め尽くして、く、苦しい〜、狭い〜、出して〜、みたいになる瞬間があるんですよ。
単純に音が大きいのとは違うし、(同時に音を出している)楽器やコーラスの数が多かったりするのとも違うし、音が厚いってのとも違うし、音圧でもないし、音空間を埋め尽くしてるというのが一番しっくり来るんですよ。構成上の問題だと思うんです。演奏によるのかなと思っていくつか聴き比べてみたんですが、やっぱりあるし、ベートーベンはこの瞬間が含まれる作品が多いなあ、というかそれがベートーベンらしさ?と思っていたりします。

http://d.hatena.ne.jp/starboard/20091202
相性と言えば、モーツァルトの音楽って、なーんか好きでないんですよ。天才なんだけど、よく出来てるんだけど、気持ちいいんだけど、なんか奇麗にまとまり過ぎっていうか、宮廷音楽風というか貴族の慰みというか、もっと直截に言うと、子供の頃にチヤホヤされて育ってそこから抜け出せなかった大人像を連想して好きでない。

http://d.hatena.ne.jp/starboard/20091207

  • パミーナの嘆き。音楽はじまった瞬間にいきなり激しく揺さぶられる。やっぱり私はここ強く反応するんだ。とりあえず再現性はあることが分かった。聴いてて苦しいし次回からは飛ばしてしまいそうって、そういう方向の揺さぶられ方だけど、とにかく激しく反応する。
  • 3人の童子とパミーナのシーンもちょっと音楽的にしんどいな。モーツァルトはやっぱ天才だな。なんでこんな罠が仕掛けられるんだ。

http://d.hatena.ne.jp/starboard/20100115
演奏って、私にとっては好きか嫌いかじゃないんですよ。味わえるか味わえないかなんですよ。実は、よく味わえるけど駄目な(積極的に聴きたくない)タイプの音楽ってのもあって、それがモーツァルトのある特定のタイプの音楽だったりします。すごいダイレクトに入ってくるんだけど、それゆえに不快というかなんというか・・・「そんな簡単に入ってこないでよ!」って思うんですよねー。

音楽の聴き方のなかに、この原始的な要素と社会的な要素があって、前者は音そのものが原始的に意識に働きかける直接的な効果で、後者はそこから感じるドラマとか感情とか、それによって呼び起こされる記憶とか、そういうもの。学習や経験の効果が大きく働くのは後者です*1。そして、一部の現代音楽みたいなストーリー性を排除した*2作品については社会性起因の反応が起こる可能性がほぼ排除されているので、原始的な要素がクローズアップしてくるわけです。目を閉じると耳が冴えてくるのと一緒で、音楽の中から社会的な要素を省くと、原始的な感覚が研ぎ澄まされるわけですね。逆に、こういう風に文章で音楽を書くということをやっていると、クローズアップされるのは音楽の社会面です。

これまで特に意識して来なかったんですが、この2つの要素に分けて考えることではっきりした気がします。いままでは、原始的な音空間に対して起こる高揚感を、ドラマに感動したせいなのかと思ったり、逆にドラマ的な意味では興奮しているのに原始的な反応を伴っていないせいで、あの高揚感が無いということは私は感動していないのか?などと思い込んでしまうことがありました。今は、はっきり分かりました。

上記のように整理して考えられてはいなかったものの、原始的な要素があること自体は薄々自覚してて、かなり高い確率で原始的な高揚感を作ってくれる指揮者にショル爺ことサー・ゲオルグショルティがいます。去年のプロコフィエフのボリス体験は、この原始的な高揚感という観点で今までの音楽経験で一番強い経験でした。


で、この日言及したZ軸とXY平面です。

http://d.hatena.ne.jp/starboard/20100127
しかし高揚する・しないが何で決まっているのかは自分でもよく分からなくて、無調音楽みたいなもので強く高揚することもあるし*1、いわゆる名盤がスルーなことは多々あります。どうも、みんながXY平面で語っている音楽を、Z軸で反応しているような、そんな感覚があります。なんとなく聴きかじりでXY面のことは薄らぼんやり分かるんだけど、でも自分の反応は、そことは関係ない次元で起きていて誤魔化しようがない。いや、みんな程度の差はあれそういうところがあるのかな。一々言わないだけですか?

わたしは自分の原始的な意識に低次で結びついている反応のことをZ軸だと思っていて、これは他人には通じにくいと自覚していたのです。余談ですが、オペラを聴く前によく聴いていたジャンルはテクノとかエレクトロニカなんですが、そっちのリスナーにはこういうZ軸感覚の持ち主が多いと思います。この感覚ってのはそんなめちゃくちゃ珍しいわけでもなくて、一クラス分の人数がいたら数人は該当してもおかしくない程度で決して珍しい存在じゃないけど、目の前の人に言ってみて通じる確率は10%以下みたいな、そんな存在だと思います。

そして、XY平面とは音楽の社会性のことでした。この音楽は、どんな風景を、どんな感情を描いているかということです。こちらは、正解があるような無いような、自分の感想が他の人とずれていたときに、自分の中には他人に通じない感覚があることを自覚しているので、自分が間違っててあっちが正しいんだろうなーと自信が無くなるパターンを繰り返していました。いますっきりしました。


関連するキーワードに、絶対音楽と表題音楽という分類があるみたいです。表題音楽とは「音楽外の想念や心象風景を聴き手に喚起させることを意図して、情景やイメージ、気分や雰囲気といったものを描写した器楽曲のことをいう。対義語の「絶対音楽」は、音楽外の世界を特に参照せずとも鑑賞できるように作曲された音楽作品(またはそのような意図で創られた楽曲)のことをいう(wikipedia:表題音楽)。」でも、wikipediaの説明を読むに、これは曲の分類で、かつ排他的な概念みたいなので、ちょっと違うと思っています。私の原始的な反応とは、標題音楽の中にも必ず潜んでいるものです。表題音楽を表題音楽として聴きながら、同時に絶対音楽としても聴くというようなことをやってるんですかね。

うん。面白い発見でした。

*1:原始的・・・の方も学習効果はありますが、パブロフの犬とかアレルギーとか、そういうレベルの学習効果です。

*2:本当は全くストーリーが無いのともまた違ってて、普通の音楽で想定するような人の感情や具体的な情景に関連したストーリーは無いと言った方が正確です。