ジークフリート3幕@ホルテン演出を語る

子供のようなヒーロー!なんて素敵な男の子!
この間はてなおとなり日記*1経由で知ったid:wagnerianchanさんとこの翻訳を読んで以来、どうもジークフリート3幕のイメージが頭から離れなくて困っている。というわけで今日のテーマは3幕である。もちろんネタ元はコペハンリングである。

あ、その前にみなさん。id:wagnerianchanさんの対訳を読もう。お薦めです。オペラ対訳プロジェクトで公開中です。http://www31.atwiki.jp/oper/pages/195.html


コペハンジークフリートの3幕については前にも書きましたが、発売後一年未満のDVDだしと遠慮がちに書いてましたが、どうせ誰も観やしないことが分かってきたので、今日は遠慮せずホルテン演出の魅力について思いっきり語ってみます。

  • これ見て「やられたー!」と思ったのは、ブリュンヒルデが「怖くないの?ジークフリート、この荒れ狂う女のことが?」のシーンでスッパーン!とジークフリートを押し倒して仁王立ちになるんですよね。押し倒すっつーか転がすっつーか。んで恋にのびてるジークフリートがこれまたスッパーンと気持ちよく転がるんですよ。柔道でうまい人に投げてもらったときの爽快感て分かります?受け身をとろうとかそういう間もなくて、一瞬空が見えたと思ったら、もう次の瞬間には終わってる。あの爽快感がある。
  • うっわー、これはやられたなーと思って、ホルテンすげえ!と思ったんです。だって、すごい決まり方なんですもん。ブリュンヒルデの中に同居してる奇妙なアンバランスさとか、そのアンバランスさが次の台詞に登場する、まさにここにこれを持ってきたこととか、そしてこのアンバランスさがあるゆえに却って人物がリアルに感じられることとか*2、そして、ジークフリートが恋にのびてるのが、もう、すごくよく伝わるんですよ、この一瞬だけで。
  • んで次の瞬間には、ジークフリートが上半身だけ起こした体勢で、ブリュンヒルデを下から見上げながら「折角君が教えてくれたおそれを、もう忘れちゃった」、そっからジークフリートの頭をひざの上に抱えて「子供のようなヒーロー!なんて素敵な男の子!」と続くんですよね。この一連がこれまた自然で。全然重力を感じないんですよ。
  • アナセンのジークフリートだから本当に子供みたいで、子供というか子犬みたいにコロコロと全然ダメージ無さそうに転がってるし。でもこれやるのもその直後歌うのも実は大変ですよね。アナセンの年齢を考えると特に(←気付いちゃ駄目だ)。
  • そして、大事なところ。このディエットの一連のくだりって、ブリュンヒルデが、いつ何故受け入れたのかよく分からなくないですか?これまでに観たことのある映像でも、リブレット通りなぞってあるけど、結局分からなかったというパターンだった気がします。なんで30分もすったもんだしてるのか全然その意義が分からないの。
  • コペハンリングでは、ブリュンヒルデが「ねえ私のおそれも分かってちょうだい」と言うところで全てぱあっと霧が晴れるように分かるんです。ホルテン演出では、この台詞が出る前にブリュンヒルデワルキューレロックの中に置いてあったトランクを見つけて、その中からは花嫁のベールと黒衣のベールが出てきて、そしてブリュンヒルデはヴォータンのメッセージを理解して、その後でこの台詞を言うために外に出て行くんですけど、演出としてはそっちの方に目が行くかもしれないけど、描きたいことはその後で、全ては「ねえ私のおそれも分かってちょうだい」の一瞬に向けて作り上げられていくんです。
  • このブリュンヒルデは、本人は自然なつもりで外から見るとエキセントリックな人で、ずいぶん思い切った言動をするから、おそれやためらいなんて感情がないように見えて、でも本人の中では人一倍そういう感情が強い、そういうタイプの人だよね。いや、元神さんに対してこんな人間くさいこと言い出しても仕方ないか。
  • そして全ては、最初に書いた「スッパーン!」のシーンに収束していくんですよね。あそこでカタルシスがあって、その後の「輝きながら愛し、笑いながら死のう!」に自然に繋がってハッピーに終わるというのがコペハンリングの解釈です。
  • 音楽もこの2つのターニングポイント(「私のおそれも分かってちょうだい」と「スッパーン!」)を明確に描いているってのも魅力かもしれない。こういう連結の密さってのは小劇場の強みなんでしょうね。
  • この最後の台詞も、2人が同じことを繰り返すのですが、2人の間にずれがあるとよく言われるのですが、私はそうは思わなくて、ブリュンヒルデの中に二面性を感じます。コペハンのペコちゃんみたいなブリュンヒルデを見てしまったせいかもしれません。
  • その二面性というのは、死(=黄昏)を笑って迎えよう、受け入れようという意思(又は予感)と、単純に死ぬまで笑っていよう、つまり「死ぬまで=生」に比重のある表現なんですけども、後者はジークフリートと共有していて、前者はブリュンヒルデだけが知っていることです。このディエットの間中、ブリュンヒルデだけがこのような二面性を抱えているのです。そう思わないと、ブリュンヒルデが何故ああグダグダ引きずって挙句受け入れたのか説明がつかないと思うんですよね。はじめから受け入れたい気持ちがあって、でもそれに乗ってしまったらどんな結末を招くか感じていて拒否出来るものならしたい気持ちもあった、ようはゴネていたと、そういう状態だと思うんです。文字通りに受け取ってると不可解じゃないですかね。
  • あとはコネタ。ブリュンヒルデが起きて最初にジークフリートが歌うシーン"Durch das Feuer drang ich,"のところ、個人的に「ジークフリートの仁義」って呼んでます。いかにも仁義切ってるって雰囲気の音楽じゃないですか。
  • ちなみにテオリンがペコちゃんなら、アナセンはアーニー@セサミストリートである。あの馬鹿でかい口がマペット人形のようにパカッと割れて満面の笑みになるところは・・・・誰だオペラでこんなのやろうと思った奴は。ウケちゃったじゃないか。
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追記

これを書いた後でDVDを見直したら、結構細部が違いました。たとえば、スッパーン!→見上げたまま→ジークフリートの頭を抱えるという一連の間に、体を起こして歌う時間が入ってたりとか。記憶って曖昧ですねー。冷静に考えたら1節歌うのも長いんだから、そういう時間入りますよね。でも記憶に残るとショートカットされて、カットされた一コマ一コマがつながってこういう印象になるんですよ。ということでお読みください。

*1:近い日付で似たような内容を書いているblogを教えてくれる機能。

*2:なにもかも一貫してると逆にいかにも描かれた人物っぽくてリアルじゃないんですよね。変な人の場合は特に。現実の変な人ってこういうアンバランスさがあるじゃないですか。