フェミニズム・リング、大いなる夢想家と些細な日常

コペハンリングについて、実は一番最初に紹介しておくべきことを書いていないことに気づいた。こんなんDVD買ってブックレット開いたら最初に書いてあるし、実に明快なメッセージであるから改めて書く間でもないと思っていたのだが、すぐそう考えて大枠を書かずに枝葉末節ばかり書くのは私の悪い癖である*1。やっぱこういう形で紹介してるからには書いておくべきだろう。

コペンハーゲン・リング、通称フェミニズム・リングの大きなコンセプトは、物語の主人公であるブリュンヒルデが自分と父と家族の歴史を理解し、自分の人生の最大の危機にどう生きるかを決めること、欲望と暴力にまみれた旧社会を炎上させて終焉に導き、新しい世界を作る決断をすることである。だから物語のはじまりであるラインでは暴力がはっきり描かれているし、黄昏ではギービッヒ家がその役割を担わされている。ギービッヒ一族の行動はボスニア(旧ユーゴ)やルワンダの虐殺を想定して描かれたそうだ。旧社会のイデオロギーの否定がフェミニズムなのだ。

同時にホルテンはこれはパーソナル・ヒストリー*2の物語なのだと言っている。ブリュンヒルデはヴォータンの神々の終焉に備える行為の一環として産まれてきた子供だ。その原因を探っていくとヴォータンの欲望が原因だった。ブリュンヒルデは欲望の一部として生を受けたし、ワルキューレとして働いていたときにはそのシステムに加担していた。彼女はそのことを理解して、そのうえで行動する。我々もまた負の歴史を持っている。旧社会は自分の一部だ。オペラを観た後で、自分自身の歴史について考えて欲しいとホルテンは言っている。


ホルテンてのは、とんでもない夢想家だと思う。そしてシャイだ。シャイな夢想家は、日常の細々としたディテールに載せて夢を語る。祖父が孫のところを訪問するのに持参するペストリーに、片っぽだけ壊れたリュックの止め具に、そのリュックの中に詰め込まれたガラクタ達に、反抗期の子供が洗濯物を投げつける仕草に、何が可笑しいのか分からないのにつられて笑ってしまう笑顔に、愛する人と一緒に飲む朝のコーヒーに、その人の帰りを待つテーブルの上に置かれた写真に、冒険に出かける前に慌てて口いっぱいに頬張るペストリーに(またペストリーだ!)、最高に勇壮な音楽に合わせてエプロンを付けるヒーローに、あと少しの時間しか一緒にいられないのに泣きそうな顔を見られたくなくてそっぽ向いてる斜め後ろ姿に、膨大なディテールに囲まれてそれは描かれる。

大きなコンセプトの話をするとか言っていて、やはり細かい話になってしまった。けど、やはりこの人のことを語るときにこれは外せない。シャイで糞真面目で笑っちゃうくらい夢想家で、でもなんだかトボケていて、大事政治を語るのと同じくらいの情熱を込めて日常の細々としたことを語る人、それがホルテンである。そういう人の作る作品だという感じがすごくする。私がホルテン演出を観ていて、特別だと感じるのはそこである。

実はこの感覚はブラナー映画を観ていて感じるものと共通である。笑っちゃうくらい夢想家で、あまりにも突拍子も無く夢想家なので、それに触れた人はギャグか皮肉と受け取ってしまうくらい夢想家で、しかもシャイなのだ。ホルテンはデンマークのケネス・ブラナーと言ったのはこういう理由だ。

さて明日は、ホルテンのリングで、私が一番好きなシーンについて書こうと思う。

*1:でもホルテンも悪い。だってペストリーがどうしたとかエプロンがどうしたとか、そんな話ばっかりしてるんだもの。

*2:より正確には personal mythology=個人的神話だけど、日本語としては歴史と読んだ方がすんなり理解できるだろう。