京響定期レポ7月

聴いてから1ヶ月近く経過してしまった京響の定期7月分の記録です。

これから書くことはなんだかトンデモな気がして、長いこと書くのを放置してました。この日記のテーマは曲や演奏のことではなくて、音楽体験に対する自分の感覚に自覚的になることです。だから観察的事実として感じたことをそのまま書きますが、それが正しいわけでも普遍なわけでも無いので、この文章を目にした方は気にされませんよう。ある偏った感覚の持ち主からはこう見えたという主観の記録であって、それが客観的にどうなのか、何故そうなるのかはまた別問題なんですよ。というか、むしろ書き手である私の方が自分の感覚が異常ではないかと(子供の頃から)悩まされていて、それがベースにあるから感覚の話を記録するなんて試みをはじめたわけで。

京都市交響楽団第537回定期演奏会
2010年7月17日(土) 2:30pm
京都コンサートホール
シベリウス交響詩フィンランディア」 op.26
グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調op.16
バーンスタイン交響曲第1番「エレミア」
京都コンサートホール・大ホール
広上 淳一(常任指揮者)
アリス=紗良・オット(ピアノ)
富岡 明子(メゾ・ソプラノ)

もう時間が経って細かいところは忘れちゃったので「感覚の話」的に意味のあるポイントだけ。

  • やはりおっちゃんこと広上氏の演奏は立体的にしっくり来る。同じ次元を共有している感じというか、過不足がない感じがする。他の指揮者だとどうもこの立体を意識していない(or 彼の把握している次元が私のそれとずれていて、私が意図通りの次元で聴くことが出来ていないので結果的にしっくり来ない?)感じがぬぐえなくてもどかしいのだが、それが全然ない。ぴったりする。同じ音を聴いているんだと思える。この経験はすごいと思う。相性なのかもしれないが、特別だと思う。
  • この日の座席は3階Lサイドの一番P席寄り。この前のP席のような迫力や音にすっぽりと包まれる感じはない。似たような位置なのに不思議だ。
  • 何故ここを取ったかというと、もちろんホルンの音を直に浴びたいからである。そのホルンのファーストが1曲目は別の人で「えー?」と思ったが、2曲目から目当ての人が出てきてほっとする。やっぱりこの人の音は好きだ。そして、2曲目終了後の拍手のときに広上氏が真っ先に彼を名指して拍手を促していた(しかもこの休憩前のタイミングでソロで指名されたのは一人だけ、他の人はパート単位だった)のを見て、やっぱり同じ音を聴いているんだと嬉しくなる。
  • 2曲目のピアノ協奏曲は、やっぱり私はピアノの音が苦手なんだと再確認する結果になった。すごく打楽器的な響きに聴こえて、ピアニッシモになるごくごく一部の時間を除いた他の時間はずっと混濁して聴こえるのだ。他の楽器と比べてものすごく異質で、ピアノ協奏曲なんて奏法を間違えたパーカッションがずっと鳴り響いているようなものなのだ(←私の主観にとっては)。何か聴き方を間違えているのだろう。ちなみにピアニストの方は写真で見ると結構日本人ぽい感じですが、立体で見るとガイジンな感じでした。
  • この日の演奏では、エレミアが一番良かったと思う。はじまった瞬間「ああ、おっちゃんは本当にバーンスタインが好きだなあ」という印象で*1、他の曲と全然理解度・咀嚼度が違った。
  • ところでステージ後方寄り側面で聴く歌手の声はさっぱりですね。人の声って指向性が全然楽器と違うや。オペラ配置のときにステージ寄りサイド、つまり歌手とオケの間で聴くならともかく、コンサート形式で、つまりオケの前に歌手を配置する場合はこれはまずい・・・というか折角の機会が勿体無いですね。いくらP席ライクな音が好きでも、このときだけは前を取るべきですね。

*1:ところでうちの親父もバーンスタインが好きだったな。世代的なものかな。おかげでクラシックを自発的に聴き始めたばかりの頃は(って、今もその段階から卒業出来ていませんが)、何を聴くのもバーンスタインと比べていたような気がする。その頃書いたものはずいぶん偏ったことを書いていたことだろう。