グレの歌で考えた

昨日時間切れで書けなかったのだが、聴いている間どうしても考えてしまって仕方無いことがあった。それは「どうして神を呪ってはいけないのか?」ということであった。もっと言うと、「西洋の神さんは、どうして呪ってはいけない種類の神さんなのか?」という疑問なのだった。

ちなみにグレの歌は、前にも書いた気がするが、デンマークの作家ヤコブセンの小説『サボテンの花開く』が原作で、それにシェーンベルグが曲を付けたもの。というわけで舞台はデンマーク。『サボテンの花開く』は、ある夜ある家に集った5人の若者達が(彼らの崇拝するその家の娘に捧げるために)それぞれが詩や物語を朗読して聞かせるというオムニバス形式になっていて、グレの歌はそのうちの一人が語ったストーリーである。以下で日本語訳が読めます。全体の1/5くらいのところから。「グアの歌」で検索してもよい。

http://homepage2.nifty.com/blaalig/cactus.html
サボテンの花ひらく 日本語訳

神を呪った云々は、デンマークの王ヴァルデマー*1が愛人トーヴを嫉妬深い后に殺されてしまい、神を呪ったために彼の魂は天国に行くことが出来ず、多数の従者(これも亡霊)を引き連れて夜な夜なグレの地を荒らしまわったという文脈で出てくるのだった。

日本人の感覚だと、ここの「神を呪った」は「運命を呪った」と同義だし*2、日本の多神教的な神さんはそもそも呪われても全く意に介さなさそうというか、行為に怒ることはあっても胸のうちに怒ることはなさそうというか、その行為も結果的にまずいことだと怒るわけで人間側の意図とは関係なく偶然に近いものがあるというか、その辺のランダムさがタブーを作ったりもしたのであって、これは基本穏やかでたまに荒れる日本の自然を反映しているのかもしれない。まあこういう原始的な宗教観と比べてはいけないのかもしれんなあと思って、神道や仏教はどうだろうと思ったのだが、全くその辺のことは知らないことに思い当たって愕然とする現代日本人であった。まあその辺はっきりさせずに、なんとなく曖昧なまま習うより慣れろで甘えながらやっていくのが日本的であるような気もする。

んで「呪ってはいけない」はなんだろうな、「疑ってはいけない」に近いような気もするが、どうなんだろう。私は宗教は人間の必要から出たものとして、特に科学が進んでなくて様々なことが未解明な状況下では人間の精神にとって必須だったろうと思っていて割と肯定的に考えている人間なのだが、しかし、必要からアピールすると分からないような気がする。このアプローチだと「疑ってはいけない」くらいしか思いつかないのだが、これはいかにも表層的な気はする。ひとつ関係あるかもしれないことで思いつくのは、そもそも日本人には、誰か大切な人が亡くなったときに、それを神の仕業と考える思考がない気がする。いや昔の人の胸のうちは分かりませんが、なんとなく。「神を呪う」ってことには、その事象が「神の行為である」という大前提が結びついている気がする。

本当は救済ってのも分からないのだよなあ。あ、これ最期は神を呪ってしまった魂が救われるという結末なのね。そんで、救われるとは何なんだろう。「安らか」ってことだろうか。やっぱり信仰のない人間としては、死者が安らかということは遺された者にとっての慰めでしかないと思っていたりするわけで、救われたかどうかが本人にとっての問題になるってのは、本当のところは、実感としては、分からない。知識として、それが重要な文化圏があると知っているだけだ。直線的な終末に向かっていくとする世界観と関係するのだろうか。それ抜きでも救済ってのは必要なものなのだろうか。

まあここまで考えて、オチはない。すんません。クラシックの声楽曲聴いてるとこういうこと考えるよねってことで。そのうち続きを考えるかもしれないし、なんか調べるかもしれない。とりあえず参照資料無しの状態の素朴な感想を先に記しておく。

*1:モデルになったのは、4世とも1世とも言われている。

*2:クリスチャンにとってはえらい違いなのかもしれないが。