トリスタンとイゾルデ@DKT/詳細版(6)

DKTレポの最後は、時系列レポから溢れた感想もろもろです。これまでのレポはこちら → (1) (2) (3) (4) (5)

結局のところ今回は、一言で言って、トリスタンに自分を重ね合わせながら鑑賞してました。だからこのレポの途中に書いた作品背景の妄想とか、実は恥ずかしくて読み返せないです(笑)。他人事ならなんぼクサくてもおっけーだけど、自分が入ってるとダメです。そもそもstarboardのくせに、なんでそんな悲劇の主人公みたいなことを考えてんだよっていう。うう恥ずい。

私の話はどうでもいいので鑑賞の話に戻して、今回の経験が何かというと、ふたつあって、ひとつめは圧倒的なリアリティ。初日の鑑賞直後に引用した文章(アナセン初邂逅記)をもう一度引用しますが、

http://d.hatena.ne.jp/starboard/20091227
でもこの人すごいんですよ。何がすごいって、彼を見てると、ジークムントを一人のリアルな人間として感じるんです。あんなぶっとんだ設定の人物をこんな風に思う日が来るとは思わなかった。物語の登場人物としてリアルとか演じることに関してリアルというのと、自分の隣にいてもおかしくない人間の一人としてリアルって違いますもん。何故か前者を通り超えて後者なんです。

これに尽きるなーと。トリスタンとイゾルデという物語を観たのではなくて、生身のトリスタンという人物の生に触れたみたいだった。その意味では、自分がクルナヴェールになったみたいだった。クルナヴェールのポジションで、ずっとトリスタンに付き従って、あの一部始終を見ていたみたいだった。何故こんなことが起きるのか私には分かりません。この物語は語りが多くて、たしかに出来事を見ているというよりは、向かい合って個人的な告白を聞いているかのような、そんな気がしてもおかしくない要素はあるかもしれません。

ふたつめは、ひとつめと密接に関連してるんだと思いますが、主観的鑑賞の最も極端な例を体験することが出来たということです。歌とか音楽を介したと認識してなくて、直接感情が流れ込んでくるような、終わって残っているのはそれだけだったという、そんな体験です。歌も音楽も認識しなかったというと、オペラファン的にはなんて勿体無いんだということになるのかもしれませんが、それをかき消してしまうくらい鮮烈なものがあったということですから、自分としては大いに満足です。

しかしこんな感じなので、トリスタンの比重が上がりすぎてイゾルデがかすんでしまったというのはありました。愛の死の希望に満ちた幕切れのところも、私にはどうしても、イゾルデという理解者(による語り)を介してその場に集った人々にトリスタンが終に理解されたという結末に見えてしまって、そういうことじゃないんだろうなーと思いつつ、そう思って観るのを止められませんでした。結局、それは自分の願望の投影なのだと思いますが、つまりそういう願望を持った人間のフィルターを介して見ないとそういうシーンには見えないのだと思いますが、そして、それは正解ではないのだとも分かっているのですが、同時にこうも思います。自分の人生で欲していたものをそこに発見してしまうような舞台を、あるいは自分でも意識していないがそれに触れることによって自分がこれを欲していたのだと発見してしまうような舞台を、一生のうちに何度観ることが出来るだろうか?そのような舞台は誰もが同じ正解に容易に辿り付く舞台に劣るのだろうか?否!断じて否!

自分の人生で欲していたものをそこに発見してしまう舞台、これは私は既に一度経験しています。ジークフリートの3幕で、ジークフリートが「もう自分は要らない!」と言うところです。あれもあそこにそんな比重を置く人はいなくて、やはり特定のフィルターを介して見ないとそうは見えないシーンであり、自分の人生で欲していたものを思いがけずそこに発見してしまう体験そのものでした。何故そんなことが起こるのか?それほどまでに没入して、自分の人生をそこに見出してしまったからでしょう。つまり、最初に戻ります。圧倒的なリアリティがあるからだ、と。

最後と言いつつ、もう1回続きます。次はこんな恥ずい話ではなく、楽しい小ネタ集になる予定です。

追記/続きはこちら → トリスタンとイゾルデ@DKT/詳細版 (雑談編)