「歌」を語る−神経科学から見た音楽・脳・思考・文化−

私はある音楽/演奏の客観的評価なんてものには全く興味がないが*1、自分が何をどう感じるのか、それは何故か*2、それが他人とずれているのは何故か、集団としての他人が何をどう感じるのか*3ということは気になって仕方がない人間であり、そんな興味から手に取った本。同じ訳者による『「意識」を語る』が良き入門書であったこともあり、かなり期待して読み始めた。

で、一読後の感想としては、当初の疑問に関しては期待外れだった。まずこの本は神経科学に関しては殆ど扱っていない。やや遠い間接事例が匂わす程度に登場するだけである。「歌」に関する記述も科学的な事実の把握というよりは印象の寄せ集めで、それらに対する考察も、もっともらしい仮説ではあるがそれ以上ではない*4。また進化についてことさら言及したがるのだが、素朴な紋切り型の処理をしているだけで、頻発させるほどのものじゃないだろうという印象。現時点では、それらしくはあるが裏づけのない絵空事の連続である。そして通して読んでから訳者解説を読むと、「歌と人類進化の関係を出発点としたエッセイ集」とあった。こっちを先に読めば良かった。サブタイトルに期待し過ぎた。

しかしまあ、部分的には、今後考えるうえでヒントになりそうな記述がいろいろある。科学としてのまとまりを期待せず、最初からエッセイ集として読めば、面白い友人と一晩話し込んだくらいにはヒントがあり、それなりに満足したのではなかろうかという一冊。以下その部分のメモ。自分用メモなので不親切仕様かつ本の紹介としては不適切な抜粋です*5

  • なぜ音楽はこれほど人々を動かす力を持つのだろうか?ピート・シーガーは、歌においては媒体と意味が組み合わさるからだという。形式と構造が感情的なメッセージと一体化するからだ、と。
    「音楽の力は形式の感覚からきているんだ。一方で通常の発話は、そこまでの組織を持っていない。言いたいことは言えるけれど、でも絵画や料理やその他の芸術のように、音楽には形式と設計がある。そしてそれがおもしろいものとなり、記憶に残るものとなる。・・・」
    • 私がオペラを聴く理由は、登場人物の心情がテレパシーのように入って来る瞬間があるからで、一番いい時間は、その人がどんな声を出しているかさえ意識していなくて、ただ心情そのものがすこーんと入って来る、そういう瞬間です。歌という様式と制約を介しているのに、リアリティを追求した芝居よりも、その気になればなんでも詰め込める小説よりも、ダイレクトに伝わることに衝撃を受けました。
      http://d.hatena.ne.jp/starboard/20110704
  • 人間が得意で動物が不得手なのは、関係を符号化することだ。・・・この関係の理解は、実は音楽の享受にとって根本的な能力だ。・・・そうした音楽関係の一つはオクターブ等価だ。
    • オクターブ等価という言葉を覚えた。周波数の整数倍。こういう言葉を使う分野があるんだなあ。とすると、私の知りたいこともいつか解明されるか、もう解明されていて単にアクセスの仕方を知らないだけか。
  • 多くの人はオペラの物語に惹かれるが、それと同じくらい多くの人はストーリーすら追いかけようとはせず、単に鮮やかな場面や美しい声の響きだけを楽しんでいる。ポップス、ジャズ、ヒップポップ、ロックですら、多くの人は歌詞などあとづけの代物として機能し、旋律をひっかけておくための仕掛けでしかないと思っている。「歌詞なんて音楽とは関係ないでしょう。あれがないと、歌手がメロディに合わせてひたすら『ラララ』と言うだけになるのでつけておくだけです」と断言する人は多い。それどころか多くの人にとって、「ラララ」だけでもなんの問題もない。
    • エレクトロニカ愛好者だった頃の自分自身が当て嵌まる。あそこでは歌詞はないか、「シンボリックな単語の反復」がいいところである。
  • 「音は視覚とは違いますね。何かを見ると、あっちにある感じがするけど、音を聞くと、それがここの中にあるような感じがする」と私は頭を指差した。
    「そう、音は内面世界と外部世界を結びつける。・・・」
  • 人々が長い文を正確に思い出すとき、それは通常、音楽に合わせた文―――つまり歌となる。そうした驚異的な記憶が、音楽なしの平文で発揮されることははるかに難しい。・・・(ルービンの実験。50人にアメリカ合衆国憲法の前文を思い出させ、どこで停まるか観察。ほんの数単語で停止し、一旦詰まるとそこから先は思い出せなくなる)・・・歌はリズム的な勢いがあるので、ことばがなくても頭の中で「流し続ける」のがずっと簡単だ。単語や単語列が再び分かる部分で飛び込んでくる機会を脳に与えてくれるので、歌詞を思い出すのは、音楽なしの詩を思い出すよりも成功率が高い。
    • ここから学習や伝承のために歌が有用であり、進化的に歌に価値を置く集団が生き残ったという論旨になる。
  • 一神教は出来事がはっきりした理由なしに(わがままな神様の気まぐれで)起こるという支配的な世界観から、物事に論理と秩序がある(真の唯一真の計画に基づく)世界への変化だ。
    • 全くの余談で単なる思いつきだが、理不尽な社会状況でも受け入れる心性*6ってのは多神教世界観のまま近代を迎えたってのが根っこにあるかもしれないなあ。
  • ・・・最高の芸術は曖昧だ。曖昧さは、それを受け取る人に能動的な解釈を要求する。
    • 芸術と能動性というキーワードを受け取った。これはあるなあ。オペラだと演目(台本作家と作曲家の作品)の段階と、その演奏や演出の時点の段階のそれぞれについてあるなあ。でもって、自分の中に、演目を単になぞった=受動的=単なる芸(どんなに美しくても!)、ある種の二次創作といえるほど踏み込んでいる=能動的=芸術という評価軸があることを自覚した*7。つまり、演者(演奏・演出側の)能動性と観客の能動性の二重構造になってて、演者が能動的に介入した結果がさらに観客の能動性を促すようなものが良いのだ*8

*1:後述するように集団の感じ方を推測するヒントとしては興味がある。

*2:出来れば心理的な説明ではなく物理的な説明で。

*3:出来れば定量的に。何割の人間がこう感じ、また別の何割かはこうであるといった具合に。

*4:お話としてもっともらしくまとまり過ぎるので逆に信憑性がない。

*5:自分の興味や体験と重なる点を抜き出しただけで、本書の主張全体を表してはいない。

*6:小さな集団内の不平等や抜け駆けなどへの許容はとても低いにも関わらず、社会全体を左右するような巨悪は簡単に許容され、むしろ肯定される。

*7:もちろん変えればよいってんじゃなくて、その質は厳しく問われるけど。そりゃそうだ。

*8:自分にとっては、ですよ。