ヴィジョンあれ!武満・大江対談「オペラをつくる」

わたしは、自分がオペラの何に惹かれているのかということを、確かに感じているのだが、そして同時に、それは多くの人がオペラに求めるものとはどうやら違うようだということも感じ取っていて、だけどいくつかの劇場や人々はそれを志向していることも気がついていて、ただ、それがなんであるのかを表す言葉を、ただ言葉だけを、長いこと知らなかった。ずっと感じてはいて、ただ言語化されていなかった。

この本を開いたら、最初の数ページにそれが書いてあった。それで、すっかり満足してしまって、この読書は、長いことそこで中断していた。一生それでいいじゃないかと思っていた。最初の数ページで受け取ったもので満たされて中断された体験が、夢中であっという間に読み終えた体験よりも、自分にとって重要であるということもあっていいのじゃないかと。

中断したときから数ヶ月経ったので、最初の数ページで受け取ったものを、他人の思考で辿る前に自分の頭で考えることが出来たと思ったので、続きを読んだ。ここで武満によって語られたオペラ的なるものが、たぶん私が惹かれた部分であり、ヴィジョンを希求しているかどうかが、その出来はどうあれ、私が、芸術と芸の違いとして感じていたものだと今は思う。

以後は、後で振り返るための長めの引用。

オペラをつくる (岩波新書) [新書]
武満 徹・大江 健三郎


武満によるまえがき 「私の内面に、オペラ的なるものへの欲求が動いているように感じられたのは数年前からのことで、それは、これまでの、主に、オーケストラや器楽作品での試みが、いま、ある種の飽和点に達したように感じられたからであり、だがそればかりではなく、分類しえないような全体、タルコフスキーの映画に見られるような、「世界感覚」的なものに対する憧憬と共感が、押え難く、私のなかで、大きなものとなったからに外ならない。
・・・私は、これまで、オペラというものに対して、殆ど、無知といっていいほどなにも知らず、また、無関心であった。むしろ、表現形式としてのオペラには、否定的な感想しかもちえなかった。そうした私が、オペラ的なるものへ強い関心をもつようになったのは、既成のオペラ作品からの影響ではなく、むしろ他の芸術分野、文学や映画、演劇の今日の状況からの刺激によると思う。
・・・この対談の過程で、人間は、誰もが、オペラの創造者であり、また実際、その実現が可能なエポックにさしかかっているのではないか、ということを感じることが屡あった。つまり、オペラという概念は、いま、新たな理念として捉え直されなければならないだろうということを、大江氏の示唆に富んだ発言から教示され、また、この地球的規模での変動は、否応なしに、私たちに、あらためて、芸術の意味を問い質すことを、求めている。」


大江 「先にいわれたことで、まず僕がおもしろいと思ったことがひとつあります。それはヴィジョンということなのです。・・・イェーツの詩に、詩人にとってヴィジョンというものがどういうふうに現れてくるかということを書いた手紙と、その対象になっている詩があります。・・・自分がある日歩いていたら暗い森のなかでバラの匂いなどがしている、その瞬間にずっと前から考えてきたことが一挙にヴィジョンとなって目に見えたというのです。・・・文学をつうじてあるくっきりしたヴィジョンを僕は見る。それも時間的に叙述していくのではなくて、一挙にすべてが見える。複雑なもの、多層的なものが、全部見えるという感じがするのです。それが散文よりは詩に表現されている。さらに詩よりは音楽に表現されているという感じがするのです。」


武満 「音楽の方法は、他の芸術表現といくらかちがう。・・・実際に音楽をかたちづくっていく作業のなかでは、他のものより、より厳しい法則性に支配されているところがある。・・・最終的にはそうした・・・音響物理的な法則に身を委ねながら、・・・最後の瞬間にはそういうものをいっさい燃やしてしまうというか、そこからはるか遠いところへ行く、自分が実際に紙の上で音楽をつくっていくときそこで聞いている声、歌とはもっとちがう、あるときまでは自分の内面の声を少しずつ聞き出して、それをはっきりした歌にしていきたい、かたちを与えたいという気持ちがあるのです。しかし、それは最終的な目的ではけっしてなくて、音楽家にとっての最後の希望は、そうしたものを超えたもっと遠い、自分よりもはるか遠くにある声を聞き出したいという気持ちがあるのではないか。それを僕は仮にヴィジョンといってもいいと思っています。
ところが、不幸なことに、今日の社会のなかで芸術家がそうした夢見るというか、そうしたヴィジョンを見る、経験するということが非常にできにくいというか、それがほとんど不可能なような仕組みが外側にあるのではないかと思うのです。
・・・第二次大戦で、地球的な規模でのひとつの災厄を人間が体験して、しかし、そのあとで人間は立ち直って、自分たちがもたらした災害をなんとか超えて、もっと新しいもの、端的にいえば、自分たちがどうやって生き延びようかということについては、あるビジョンを持ちえたと思うのです。それを助けるためにいろいろな技術の助けなども借りてきました。・・・ところが、不幸なことに、技術はいつも大きな管理機構に組み込まれてしまう宿命にある。テクノロジーは国家によって管理され、また、たちまちのうちに商業主義のなかに組み込まれる。そうすると、それによって管理機構にとっては不都合であった個々の芸術家の夢が、ある意味では商業主義とか資本の力とか、管理機構の外側からの作用でコンパクトな、かたちの一定したものになっていく。・・・いまや僕たちが情報メディアとして聞いている音楽の大半は、ポピュラー音楽も含めて、すべて類型化しパターン化されている。ある時期までは、それによって自分たちが希求しているヴィジョンに近づき得る方法であったものが、、逆に、それをそうさせないような方向にきてしまっている現実があるように思います。
・・・いまの音楽状況を見ていると、多様であるようでいながら、本質的な芸術のありようが、外部の技術とかそうしたものによって、かえって、かつてないほど深刻に狭められてきているのではないかと思うのです。・・・いまは最も自由があるようでいながら、芸術家にとってはかつてないほど表現の自由が狭められているのではないか、これが今日の音楽状況をみたときの僕の感じです。」


武満 「しかし、やはりそれを打開していかなければならないので、そうでなければ芸術の意味は何もなくなってしまう。僕はそれほど絶望的ではなくて、ある可能性はあるのではないかと思っています。そのひとつとして、オペラがあるのではないかと思うのです。過去のヨーロッパの音楽伝統のなかに生まれたオペラという形式を借りて、それをもう一度検証し直して、さらにいまのオペラのあり方を考える。
つまりオペラの場合はやはり共同の作業を通してしか生まれてこない。またそれは必ず人間たちによってパフォームされなければならない。それからそうした作品がつねにある時間・空間のなかでたくさんの人々と共有される、経験を共有することができる。それからテクスト、つまり言葉、詩、物語を使うことで、より具体的に現実状況に対して批判的な発言が出来るだろうということ。
・・・オペラを作っていくプロセスとか、そういうことのなかでのみ個人的なもの、パーソナルなものをお互いに見出していくというか、個人の自由をどれだけほんとうに実現できるかと、そういうふうに考えています。
実は、いままで僕はオペラというようなものにはほとんど関心がなかったのです。実際にオペラの演じられ方、歌われ方、それから多くのオペラが扱っている題材にしても、あまりにもこの現実社会を見ていなさすぎるし、それと同時に、そこではたんに音楽劇的な物語性だけで自己完結していると思っていたのです。オペラは本来そうではなくて・・・政治的な題材や、現実的な素材を、もしオペラが扱っていたとしても、そうしたものとたくさんの個人が社会的な関係をもつことによって、言葉が強すぎるかもしれないが、ある反社会的なヴィジョンを、つまりそれはもしかしたら恋愛といってもいいし、より形而上的な意味での愛が、いろいろな個人によってそこに結ばれるということが、僕はオペラじゃないかと思うのです。」

以上が、最初の数ページからの引用です。長くなったので、残りは後日。