私は音楽がわからない

ある日、武満botが非常に引っ掛かる一言を呟いていた。

http://twitter.com/#!/TAKEMITSU_bot/status/197106201325080576
武満徹 (Toru Takemitsu) @TAKEMITSU_bot
さて、私が奇異に感じるのは、かなり知的な人の「私は全く音楽がわからない」という言葉です。音楽というものをわかるとか、わからないという次元で問題にしている態度こそ、実は私にはわからないのです。音楽がわからないというひとは、たぶんいないだろうと思うのです。

私は音楽が分からない。しばしばそう思う。

もちろん、音楽を聴いて何かを感じることはしばしばある。日常生活を送るには不都合なほど感じてしまうこともある。胸が締め付けられたり、動機が激しくなって止まらなくなったり、勝手に涙が溢れたり、何日も何日も消えない思いに取り憑かれたりする。

私が音楽が分からないと思うのは、私がそう感じているとき、同じ音楽を聴いた他の人の反応を目の当たりにしたときである。私には全く理解不能なのであるが、私と他の人の反応には一定のパターンがある。

私がまあまあだと思うとき、みんなは満足しているように見える。熱狂的な反応を示すこともある。このとき、私はまあまあ幸せである。

私が本当に素晴らしいと思うとき、真に素晴らしい、創造的なことが成し遂げられ、ある境地に迫ったと感じるとき、人は、しばしば怒る。様々な方法でそれを伝えようとする。その場でブーイングしたり腕組みしたりすることで示そうとする人もいる。会場で誰かに話して確認しようとする人もいる。家に帰ってこういう場で発散する人もいる。このとき、私は混乱する。何がなんだか分からなくなる。

だが、ここまではまあいい。私がもっとも分からないと思うのは、私にはどこが悪いかはっきりと分かって、どうしても許せない欠点のあるものに、最大限の賞賛が送られるのを目撃したときである。このとき、私は本当に分からなくなる。きっと自分は音楽なんて分かっていないのだろうと思う。

何を良いとするかは、好みも違うし、その人が何を求めてその場に足を運んでいるかも異なるので(例えば私がいくら創造的な付加を期待して評価しようが、別の人はそんなことは全く望んでいなくて、馴染んだ世界の範囲内で奇麗にまとめてくれることを望んでいるのかもしれない)、良いと思うものがずれることは仕方無い。しかし、自分が積極的に悪いと思うものに賞賛が送られるのを目撃したとき、私は音楽が本当に分からなくなる。


私は一人だけ「幽霊が見える」と言い張る人みたいだ。頭がおかしいのかもしれない。頭がおかしいを今風の理解で言えば、認知が異なるのかもしれない。視覚に色弱があるように聴覚にも何かあるが、視覚のような簡易な判別方法が無いから明らかになっていないのではないだろうか。そう思わないと説明出来ないくらいズレているのだから。

表現というものは、他人に届いてなんぼなのだと言う。発信側がしたいようにするだけでは自己満足なのだと言う。そういうシチュエーションを、今日のレトリックでは、マスターベーションと言うらしい。今日挙げた3つのパターンのうち2番目は、そうだと思った人が多かったということなのだろう、たぶん。それで、そこで「成功」しようとしたら、1番目か3番目を目指さなければならない。プロフェッショナルとはそういうことなのだろうか。そこで、私は決定的に分からなくなる。分からないというよりは考えたくないのだ。

実は、音楽を離れても、こういうことは起こる。音楽はそれが最も極端に見えるシーンである。そして、こういうことは自分の人生に影響している。私はこれがあるから、主体的な判断を主たる基盤とする仕事に就けない。自分の趣味として、幽霊が見えるとか見えないとか言ってるうちはいいが、それで誰かに対価をもらうとなると、途端に私は膠着状態に陥るだろう。「こうすればウケる」と「それはいけないことだ」の間で。

音楽が分かる/分からないというのは、音楽を感じるところではなくて、音楽の評価を通して自分と他人の感覚に向き合ったときに、決定的に分からなくなるということである。私にとっては。