苦しいこと

こんだけ長く間が空いたことからお分かりかと思いますが、また自分の感覚に自信がなくなって書けなくなってました。そのときどきに吐き出していかないと、その後にまた別のものを見聞きして評価が変わったりあやふやになったり言及するのがややこしくなったりするので*1 *2、なるべくその場で書いていきたいのだけど。

ときどき苦しいのでもう止めようかと思うんです。何をやめるって、ブログに書くことじゃなくて、音楽鑑賞そのものを。ものすごく苦しいから。なにが苦しいのかというと、この日書いたようなこと。最後のあたり。ロンドンでの会話から分かったこととかも関係してるんだけど。


正直ね、アナセンね、オペラを音として聴いてる人にとっては、意味を聴いてない人には、ハズレの歌手だと思うのね。彼が、私とかが舞台に感応してしまうほどの効果を与えるある種のことをやっているとき、音として聴いている人にとっては、声が思うように出ていないような、楽々と軽々と自然に出ていないような、歌唱としてイマイチなような、そんな印象になる。それも、ちょっと分かる*3。でも、私は、舞台を生きる錯覚に陥るほど感応する、その瞬間の快楽を知ってしまったので、今はもう、音として聴いたときに立派な、軽々と楽々と綺麗な声が出ている状態では全然満足することが出来ない。そして、ここでまた、「人々は私が良いと思うことを悪いと言い、悪いと思うことを良いと言う(by ジークムント)」の一丁上りなのだ。

わたし、結構、ロンドンでの評判が良かったことにショックを受けてるんだと思う(←何故そこでショックを受ける?←いや日本との落差に)。それから、今回ロンドンにアナセンのエージェントが来てて一緒に食事したりしてて、前の来日のときのローエングリンが日本側の関係者にはすごく評価されたことも知って、つまり、パフォーマンスが(体調とか喉の調子とかで)悪かったんじゃなくて、観客に決定的に通じなかったことが分かってしまって、それで、そういうことを認めるのが苦しいんだと思う。それから、それが理由だったらまた繰り返されるだろうなと思って。何度やっても「業界の自己満足」なんだろう。でも、そう思うこと自体がすごく苦しいんです。

*1:このときはこう思ったけど、その後の○○体験で評価を改めざるを得なくなったよ!的な構造を抱え込んでしまうのでややこしい。別にその通りに書かなくてもよいのだけど、それが本音だからそうでない風には書きにくくなる。目的のある文書じゃなくて自分のモティベーションだけが推進力だから。

*2:そこでふと気付くのだけど、仕事や社会的活動のために書いてる目的のある文書は、その目的のために本心とは乖離しているので、それって結構ストレスになっているのかなあ、と思い当たったりする。

*3:何故なら彼を聴きはじめたばかりの頃、自分もそう感じていたからだ。そう感じながらも同時に強烈に惹かれるものがあって今に至ったのだけど。そして今は全くそう感じない。どういう必要があってそうなっているか、どういう効果があるか、そこでどんな感情が表現されるためにそうなっているか、分かってしまったからだ。