ちゃんちき@堺シティオペラ

遊びに行ってる場合ではないのだが、あれもやらなきゃこれもやらなきゃと追い詰められて荒んだ精神に、全てをシャットアウトして頭をリセットしようと行って参りました。
これは、不思議な聴後感だったなあ。演出が茂山狂言の人だけあって、セットや衣装は基本的に能狂言系のアレである。狐穴の入口がまんま過ぎる。演技とか間合いも狂言の世界観。新作狂言を演出するようなノリで作った舞台。作品には合ってる。ただしあまりにも狂言の応用まんまなので、1作目見るには面白いけど、2回目以降はどうなんだろう。ああいう日本の芸能様式ってオペラ文化より観客に求められる前提が多いというか、変化の少ないものを観て、その中でものすごく微妙な差を感じ取る力が前提とされているので*1、演出の時代以降のオペラのスピード感・インスタント感*2からすると、初回はその様式ゆえに目新しくても、2回目以降はしんどいだろうなあと思ってしまった。これは必ずしも本日の舞台にネガティブな評ではなく、むしろインスタントじゃないと通じない観客に対して、最近考えていることだったりする*3 *4

演奏は、普段聴いてるものと様式が違うせいか、よく分からないというのが正直なところ。静の緊張感が欲しかった気がするが、それが欲しいと思い至るくらいだから良かったのかもしれない。そもそも一定以上良くないと、あとここがって言えないもんであるので。

歌手は、今日一番わからなかったところ。ここもアルカイック型なんで、2階正面に座っていたのも大きいかも。子狐は良かった気がする。実はダブルキャストのこっちを選んだのは、カワウソおかみの片桐さんを聴きたかったからなのだが、一公演聴いたのによく分からない。良かったでも悪かったでもなく「分からなかった」。なんとなくみんなそんな感じ。日本語上演にあえて外国人キャストという試みは、まあそんなに違和感なかった。人間の役じゃなくてカワウソだし。キャラクター間の極端な体格差が、こんな狐だのカワウソだのの登場する民話的であるようにも思った。

最後の直前のところで、なかなか巣立たない子狐が、父ちゃん狐が弱ってやっと一人で動くんだけど、そこで取り残された父ちゃんの(たぶん)死を描く、静のシーンというものがあって、日本映画好きな人はすぐ分かると思うんだけど、他の文化にはあまりない、でも日本映画にはお馴染みの、ただ静かというんじゃなくて、頭がぐるんぐるんしちゃうようなトリップしちゃうような静のシーンてあるじゃないですか。生きているのか死んでいるのか分からないけど、たぶん雰囲気的には・・・でもなんとなく混乱しててモヤモヤするうちにそうなってしまったような、明確に描かない、積極的に錯覚を誘うようなやり方。このシーンとか、他にも群衆のガニ股で踊る足がシルエットで見えるような、いかにもそういうシーンに付けられていそうな音楽とか、日本映画的だなーと思った作品でした。最後の静のシーンでこれがきちんと伝わるかどうかで、評価が別れる上演になるだろうなあ、とも。単に民話的なストーリーを追ってしまうと、もうちょっと台本なんとかなんないのかなーという感想になってしまうのではないでしょうか。
これはオペラだから外国でこれが通用するかつい考えてしまうのですが、日本映画を好んで観るようなマニアックな日本ファン層には一定伝わるだろうけど、非常に難しいだろうなあ。派手で分かりやすいのがオペラの世界であるからなあ。その後の子狐とか一切描かず、結論もはっきりさせず、え?そこ?って場所で切っちゃうのが日本映画に共通する美学だと思うけど、冒頭に書いた、変化の少ないものから微妙な差を感じ取る日本の伝統芸能の件とも合間って、誰もが初見で楽しめるというのとは違うのであろうなあ、と思いました。もちろん、そんなことはさておき、ただ美しい音楽や声や美術を楽しむのもアリだと思います。

オペラちゃんちき
2012年9月2日(日)堺市民会館
作曲:團伊玖磨 台本:水木洋子 日本語上演字幕付

指揮:船曳圭一郎
演出:茂山千三郎
演奏:ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
合唱:堺シティオペラ記念合唱団
狐のおとっさま:井原秀人
おとっさまが化けた美人:水野智絵
狐のぼう:柳内葵衣
獺のかわ兵衛:Krisjanis Norvelis
獺のおかわ:片桐仁

*1:狂言は日本の芸能内の比較では分かりやすい方に位置するのではあるが、オペラ文化と比較すると、やっぱり相当そっち寄りであるので。

*2:注:褒めてません。

*3:そしてそんなことがここんとこ気になってる理由は、大阪の文楽騒ぎのせいだったりする。橋下某の言うのは究極的にはみんなAKBになれとか吉本になれとか言うことであって、我々は文化を市場に任せてインスタントなものばかりになってしまわないために公金を払っているのであって、AKBや吉本が欲しいのなら市場に任せておけばよいのである。しかしあそこの支持者のような短絡的な新自由主義者モドキは、文楽が吉本のように市場で自立出来たらそれはいいことであると疑わないだろうし、今日はじめて見る人が楽しめるように変わればよいことだと思って疑わないだろう。そこがなんとも断絶を感じるところである。オペラで言うと、それは大声大会しか残らないことを意味するだろうし、実際初めて聴く人でも分かるのは大声大会的魅力の部分であるし、それどころか聴き始めて何年経ってもその状態の人なんて履いて捨てるほどいる。であるがゆえに我々が守らないといけないものは、違うポイントにあるのである。もちろん裾野を広げる=初心者の目線に立ったプログラムを同時に提供することは、同時にやっていかなければいけないのだけれども。

*4:うーむ、全然関係ないことばっか書いてるなあ。そういうことをつい考えさせてしまう上演だったのですよ。