フェニーチェ歌劇場オテロ@フェスティバルホールこけら落とし公演

こけら(杮)ってJIS第二水準外(コンピュータで文字化けするおそれのある文字)なんですね。というわけで新フェスのオープニングシリーズのオテロです。これは情熱的でいい公演でした。

まずは公演レポの前にホールの話。私は一番コンサートなんかに通う中高生の頃を関東で過ごした関係で、新しくなる前のフェスティバルホールには縁が無く、今回が初フェスティバルホール体験です。阪急沿線からは微妙に行きにくい場所にあり、梅田から歩くには遠いけど、地下鉄に乗り換えるにしても、乗換までにかなり歩き、一駅だけ乗ってまた歩くという立地で、結局通して歩いちゃった方が早い感じ。距離は近いのに遠く感じる「近くて遠い」パターンでした。

こういう立地だとタクシー争奪戦になるから、終幕のカーテンコールで即帰る人続出で、なんだか落ち着かないんですよね。良い公演だったのに勿体無い。車で行く立地のホールと、タクシーを使いたい立地のホールは、どうしてもそうなりますね。数分を争うって時間帯でもなく、皆が出るから自分もという意識がそうさせると思われ、みんなで数分待てばみんなハッピーで良いと思うのだが、なんかキャンペーンでも張れないものか。

夕方の薄明るい時間帯に入ったホールの内部は、外光がシャットアウトされた感覚の薄暗さで、夜が前提の造りなのかなーという印象。ロビーは細長い鰻の寝床タイプの造りで、視覚的には広々とは言い難いのだが、通り抜ける間に誰がいるか把握出来て、ほどよく人が集まり談笑が始まる距離とも言えるかもしれない。ホール内はともかく、ロビーや動線廻りのセンスは少々重古くてモタついた気がしないでもないけど、それはそれで大阪らしくていいか。


で、開幕。中央に獅子とサソリ、乙女や海蛇らの意匠が描かれた夏の星座風の紗幕の向こうで舞台が展開する。演出は、こなれた作りだなーという印象。この紗幕と回転する一面抜きの箱を主に使い、シーンに合わせてベットやら室内装飾品やらの小道具が登場する。物語の展開に合わせて箱が回転して、そうすると適当な小道具や人物が出てくるのだが、この間合いが自然で、なんてことはないんだけど次のシーンに確実につながって行くところは、実に手馴れた舞台芸術家という印象。室内がインド〜イスラム風にキンキラキンなのは、オテロムーア人という設定に由来するのだろうが、この物語のオテロは自分のルーツをこういう風には使わないんじゃないかと私は思ったが、舞台美術的にはよいアクセントになる。

で、フェスといえば音響に興味は向くところだが、座席配置はバスティーユ型で*1、私が音響上の理由から好む上階サイド席はペア販売しかしてくれないため*2仕方ないから3階正面に座って聴く。そのせいもあって最初の合唱シーンでは、どうもオケが立ち過ぎてステージからの音がはっきりせず残念な印象を持った。オケの音響自体も飽和気味ではっきりしない気がして、この時点では今後調整や小改装を重ねて出来上がって行くのかねと思いつつ聴いていた。喧嘩で大騒ぎになるところまではこの印象は抜けず、しかしオテロ登場から後はすっと聴きやすくなり、以後は全く気にならなくなり、休憩後は特に演奏の音響的な良さという観点からも感心する状態になった(そういう満足が得られるくらいホールの音響は気にならなくなった)。こちらの耳が慣れたのか、あるいは演奏や舞台装置の影響などで本当に変わったのか、どなたか当日会場にいたら変化を感じたか教えて欲しいものである。フェスと言えば振るような音響であるそうだが、それは私のいた3階正面では分からなかったが、ま、場所的にそりゃそうだって気もする。

念のためですが、筆者は極端なデッド好みかつ解像度命なので、一般に評価の高い残響多めのホールは合わなかったりして*3、丁度良いポイントが人からずれるのは仕方ないと自覚してますので、感想が合わなくても気にしなくていいんですよ。聴いてる場所も違うんだし。


オテロのクンデは、私的にこれ以上やると鼻についちゃうかもしれないギリギリくらいの辺りに留まっててくれてるのが良かった。声の張りや若々しさなども良し。全体にすごい若いオテロって印象。録音ですごい正確なオテロに馴染んでると不満が出るかもなあって瞬間もなくは無かった気がするが、あんまり思い入れがない私のような層には充分。

デスデーモナのクロチェットは、歌い出した瞬間は癖があってしんどいかと思ったのだが、それは一瞬で、歌が進むにつれてどんどんよくなり、終わってみると一番印象のいい歌手。柳の歌などもかなり聴けたし。あとオテロに疑われてそれがデスデーモナには何のことかさっぱり分からないってシーンで、録音などでは結構複雑に歌ってるのを聴くが、この人はあっさりキョトンと流すように歌うのが、そりゃここはそうだよなあと腑に落ちた。惜しみらくは、お姿がもうちょっとたおやかだったらなあ。平均よりかなりふくよかでも、柔らかく動いてくれると気分が出るのだが。侍女役の人が普通体型なので、並ぶと頭の体積が倍くらいに見えるのはかなり気の毒だった。

ヤーゴのガッロは新国の椿姫以来の2回目。以前の記憶を思い起こすと自分の聴き方が変わってしまったことを痛感する体験になった。ってそんなことはどうでもいいとして、そうだなあ、いくつかのシーンでは、あまりにも言葉があっさり流れてしまって、そこはもうちょっと変化を付けてくれーと思うことが度々あった。分かりやすいのは、ヤーゴのソロ Vanne; la tua meta gia vedo. の箇所とか。ただ、全編そのままでもなく、オテロに疑惑を吹き込むところなんかはなかなかだったと思う。

他の諸役では、大使役の人*4の声は好みだった。他のみなさんは立派に役を務めてたかと。私は不満が出やすい方なので、公演通じてここまで不満な人がいない公演というのは、かなりよい部類に属する。


そうそう、児童合唱がすごく良かったです。はじまった瞬間空気が変わってぱっとする感じがあって。イタリアから連れてきたわけじゃなくて高槻の合唱団なんですね*5。他の会場もここがやるのか分かりませんが、注目してあげて下さい。

大人の合唱も、冒頭で音がはっきりしなくて篭り気味と感じたところ以外は*6、すごく良かった。フェニーチェのコーラスはすごく良い印象。

ミョンフン率いるオケは、幕が進むほどによくなり、終幕の美しさやドラマでは、一番この人の良さがマッチするところのではなかろうか。実は馴染みのトリイゾ音源がこの人なのだが、ヴェルディでもワーグナーでも共通するミョンフンカラーがしっかりあることに感心してしまった。知的だけど官能がある演奏。この公演で私的に一番良かったのはオケだった。


最後にもう1回演出に戻って、終幕の処理は評価が分かれやすいところかなあと思った。私は気に入った。その直前のデスデーモナの振る舞いが、あの後はああなるだろうと思わせるから、その前のシーンと連続していて自然な気がした。ただ、同時に、ベタベタのロマンチシズムで甘ったるいシーンを付けたみたいに感じて反発する人も出るだろうとも思った。

似たようなことは、登場人物の独白シーンなどで人物にまとわり着くダンサー陣にも言えて、最初にヤーゴの独白で取り着いてるときはなんとなく陳腐な手法のような気がしたのだが、その後のオテロが疑いに支配され始める悶絶シーンではとてもうまく行っていて、考えを改めた。こういうシーンを説得力と緊迫感を持って歌うのはとても難しいのだが、どんなにうまい人でも丸裸で歌うのは難しいのだが、聴く側に冷静な部分が残ってしまって、熱唱してても距離があってもどかしい感じに陥ってしまいがちなのだが*7、その冷静な部分を視界がうまく埋めてくれて、すんなり入れることに驚いた。同時に、歌手の表現によっても、こういうシーンが効果的に見えたり見えなかったりするんだなあと思った。演出の良し悪しとして切り離して考えがちだが、やはりコンビネーションによって効果的になったりならなかったりすることを、一公演中に体験出来たのは良い体験だった。

私は、この演出家の、ベタといえばベタなんだけど、なんだろ、ベタさを恐れない性質みたいなポイントに好感を持った。単に手馴れているだけじゃなくて、もう一歩踏み込んで来るような、でもそれで全編を埋め尽くすわけではない、控えめで冷静なパッションというか。経歴見たら同年代だなあ。共感しやすいのはジェネレーション効果なのかしらん。

フェニーチェ歌劇場来日公演2013
ジュゼッペ・ヴェルディオテロ
2013年4月11日(木)大阪フェスティバルホール

指揮:チョン・ミョンフン
演出:フランチェスコ・ミケーリ
装置:エドアルド・サンキ
衣裳:シルヴィア・アイモニーノ
フェニーチェ歌劇場管弦楽団・合唱団
合唱指揮: クラウディオ・マリノ・モレッティ
児童合唱:ラピスファミリー合唱団

オテロムーア人ヴェネツィア共和国の将軍):グレゴリー・クンデ(テノール
デズデーモナ(オテロの妻):リア・クロチェット(ソプラノ)
ヤーゴ(オテロの旗手):ルーチョ・ガッロ(バリトン
カッシオ(オテロの副官):フランチェスコ・マルシッリア(テノール
モンターノ (キプロス島の前総督):マッテオ・フェッラーラ(バス)
エミーリア(ヤーゴの妻、デズデーモナの侍女):エリザベッタ・マルトラーナ(メゾソプラノ
ロデリーゴ(ヴェネツィアの貴族):アントネッロ・チェロン(テノール

*1:これは元のホールの踏襲だろうけど、そういえば大阪の古いホールはバスティーユ配置が多いのだ。

*2:フェスのペアシート鑑賞に協力してくれるオペラ鑑賞仲間募集。女性歓迎(←注:筆者は女です)。

*3:オペラも聴くクラファンではなく、オペラメインのオペラファンにはこの傾向はありがちだと思うけど。

*4:役名ロドヴィーコって言うのね、初めて名前を意識したわ、てっきり大使って役名だと思ってた。

*5:そういえば来日ツアーでも子役は国内調達が多いが、法律とか関係するんだろうか。

*6:これは合唱の問題では無く、音響的な問題だろうけど。

*7:これは奏者だけでなく聴き手の問題でもある。音楽を聴くというのは聴き手も参加する協同作業なのである。文学でも美術でもそうだけど。

京響定期2013年3月

今日は良かったですねえ。まずハチャトゥリアンの仮面舞踏会組曲。始まった瞬間、なんだなんだ一体何が起こったんだ?という印象でした。よく鳴ってましたね。京都コンサートホールというのはどこが演ろうが鳴らすのが難しい箱なんですが。そして楽章毎に個性がすごく明確で、それぞれで何が言いたかったのか(何を表現したかったのか)がよく伝わって来る演奏でした。

続くヴァイオリン協奏曲。実は京響の定期ではどうもゲストソリストがイマイチな傾向があって協奏曲が捨てプログラムになってしまいがちなところがあったのですが(折角のゲストの甲斐がない客ですいませんすいません)、なんだか来る人来る人バークなんですよ。ガンガン弾きゃいいと思ってんのか?という。本日もお名前が東アジア某国っぽいところからそっち系統かと諦め気味だったのですが、今回の人はバークじゃなかった。そして音楽が鳴り出した途端、ロマンティックなのか陶酔なのか韜晦なのか分かんない独特の感覚に、ああコルンゴルトだなあ、と。この人の音楽が退廃音楽と時代遅れ呼ばわりの両方から苛まれるのは、時代の悪戯というか、なんとも皮肉なことだと思いました。

プロコフィエフの7番。なんとも可愛らしいテーマが跋扈する曲。鉄琴て、こんなに可愛らしい音だったのかと思いながら聴いていました。胸を掻き毟られたり、翌日まで消えない想いが残ったりするタイプの切実な音楽ではありませんが、これはこれでいいのだという印象でしょうか。

やっぱり国内外オケと比べても・・・いやそんな比較の問題じゃなくてもう絶対値で、今京響はすごくいいと思うのですが、今これが聴けるのは結構すごいと思うのですが、こんだけやってても定期が完売にならなくてねえ。本日は本当にもう一歩だったんですが。いい演奏をしてれば客が来るとはなかなかならなくて、じゃあ何なら皆足を運ぶのかというと、知名度だったり、超ポピュラー曲だったりという、なんとも残念な事態。今の京響の場合、定期の会員は増えててその意味ではいい演奏をしてればリピーターは来るというのは当て嵌まってはいるんですが、京都の土地柄なのかフリーのお客さんが少な過ぎますよね。

2013年3月24日(日)京都コンサートホール
京都市交響楽団第566回定期演奏会
広上 淳一(常任指揮者)
クララ=ジュミ・カン(ヴァイオリン)
ハチャトゥリアン組曲「仮面舞踏会」
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲ニ長調op.35
プロコフィエフ交響曲第7番嬰ハ短調op.131

京都会館:解体工事住民訴訟 原告の請求棄却−−地裁判決/京都@毎日新聞

http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20130322ddlk26040499000c.html
京都会館:解体工事住民訴訟 原告の請求棄却−−地裁判決 /京都

毎日新聞 2013年03月22日 地方版

 京都会館第1ホール(京都市左京区)の解体工事で「貴重な歴史的・文化的価値が失われる」とし、文化財保護法や市の風致地区条例に違反するなどとして、市民112人が市を相手取り工事の差し止めを求めた住民訴訟の判決が21日、京都地裁であった。滝華聡之裁判長は「工事は市の裁量を逸脱したとはいえない」として請求を棄却した。

 市は、老朽化のため京都会館の再整備に着手。同ホールはいったん解体され、世界水準のオペラなど多様な演出ができるように一部の高さを約27メートルから約30メートルに引き上げる計画を進めている。

 判決は、京都会館について「(文化的に)高い評価を受けてきた」と認めたうえで、文化財保護法の規定について「訓示ないし努力義務を定めた規定」と指摘。市の対応については「建物価値の継承と機能向上という相克の中で、文化財的価値に一定の配慮をしている」と判断した。

 原告側は記者会見し「市は『建物価値継承委員会』を設置したが形だけ、実体的な配慮はされていない」と不満を述べた。【田辺佑介】

細かいことですが、全くどうでもよい枝葉の話ですが。いいですか、これは記事内容に比べたら細かい表現の話なんですよ。と前置きしておいて。

この『建物価値継承委員会』に対して「不満を述べた」原告とは私ですが、本人は不満を述べたつもりはなく記者からの質問に対して判決およびその背景の解説をしたつもりでしたが、思うことがいくつか。

  • 「原告は不満を述べた」じゃなくて、委員会の最終提言と判決文に書かれたことの事実関係についてちっとは調べて書いたらどうなのか。文書は簡単に手に入るわけだし。「誰それさんが○○と言いました」って、それ、間違いだったらそのまま垂れ流しちゃうんじゃないの。
    • 個々の記事について事実確認をしてる暇なんかなく、メディア全般で「誰それさんが○○と言いました」式の発信しかしてないからこの記事だけの問題じゃないって相場の問題かもしれないが、もう私はそれは相場だから勝手にのみこんで黙ってるって行動様式は止めたのだ。気になったらその都度言うのだ。
  • 「不満を述べた」って表記は、価値中立じゃないんじゃないの。「主張した」とかなら分かるけど。*1
  • いや私が自分から声明かなんかで一方的に述べたのなら、百歩譲って「不満を述べた」と言われても仕方ない状況もしれないが*2、自分から質問しておいて解説されたことを「不満を述べた」と言われても絶句するんですが。記者席の一同が眠そうだったから、オーバー寄りに喋った自覚は確かにあるけど。

*1:いや、なんでこうなっちゃうかはちょっと分かるよ。これ、「原告は記者会見の中で、判決を不服とし、その理由として○○を挙げた」あたりが正確なところなのを、縮めて、判決に対して不満であることと、その理由を一緒に短く書こうとするからこうなるんでしょう。でも、それは正しくない。いくら字数が無かろうが正しくないものは正しくない。これが常態化してるなら改めるべきだし、上記「主張した」など字数が少ない言い方は他にある。

*2:それでも私は「不満」だと主観的な意味合いが濃くなってしまうので、新聞記事としては不適切だと思うけど。「不服」あたりなら中立だと思うけど、それは法律用語に被ってしまうから司法記者は避けるのか。

3/24(日)京都会館 2013 〜今、つなげる声〜

ご案内が直前になってしまい、すみませんが、京都会館の催しが行われます。

京都会館 2013 〜今、つなげる声〜」
 http://kyoto2013.exblog.jp/18694620/

日 時 : 2013年3月24日(日) 12:00 〜 16:00
場 所 : 岡崎いきいき活動センター 会議室2
〇展 示:京都会館に関連する写真/テキスト/動画等のこれまでの記録
    (実際の活動やweb上での発言などをあつめたもの)

〇お話会:
    小暮宣雄 (京都橘大学現代ビジネス学部都市環境デザイン学科教授)
    松隈 洋 (京都工芸繊維大学教授)
    三上 侑貴 (弁護士・京都会館住民訴訟弁護団)
    地元岡崎地区住民の皆様/市民の皆様

京都会館がなければ出会わなかった市民有志が、自分たちなりの手作りの会を開催します。
この件に関わって、より深く京都の「まち」や建物と人との関係について考えるきっかけとなりました。
たくさんの専門家の方々に教えていただいたり、いろんな方々に出会ったり、そうした豊かな交流から学び取ったことを
自分たちの「声」にしてみよう。そうした気持ちが今回の企画につながりました。
当日は会場でお茶でも飲みながら、円座になって、京都会館のこれまで、これから、京都のまちの未来のことなどを出席者と共に語り合う予定です。ぜひお越しください。

住民訴訟

判決をよく読みこんでおりませんので、結果だけお伝えしますが、京都会館第一ホール解体の差止を求めた住民訴訟において、差止は認められませんでした。後ほど判決の解説を含めた追記をしますので、チェックして頂ければと思います。