ボリス予習4-1/リブレット対訳

さすがに出発前1週間を切ると急に忙しくなってきました。でも出発前にアウトプットしておきたいボリス予習の続きです。

まずは名作オペラブックスのリブレット対訳とプーシキンとの相違点です。
名作オペラブックス(24)ボリス・ゴドゥノ
ボリス・ゴドゥノフ (岩波文庫)

  • さてリブレットは作曲家自身が書いたそうです。
  • 何よりも違うのは、リブレットになってやっぱり平たくなっちゃいましたね。プーシキンの方は色々な含み、解釈の余地、2枚舌があるというか、読もうと思えばこうも読めるしああも読める、そういう余地のあるテキストだったのが、あまり解釈の余地の無いものになっちゃいました。リブレットだけ読むと、ちょっとガクっと来ちゃいます。
  • もちろんこれは音楽に載せて伝えるのが前提ということで、必ずしも悪いことではないと思います。オペラの台本としての性質を踏まえて作られたものでしょう。プーシキンの戯曲だって、今回私はテキストと向き合って詩作に近い読み方をしたので解釈の余地や2枚舌の要素を楽しみながら読めたわけですが、実際に芝居でこれやられたら効果的かどうか疑問です。つーか23場は多過ぎるし、このまま上演出来ないでしょうこれ。
  • という印象論はともかく、じゃあ実際何が違うのってところですが。
  • まず一番違うのはボリスの描かれ方で「皇子殺しによる良心の呵責」が中心に来たことです。プーシキンの方ではあまりボリス自身の口からは直接的なことは出てこない、常に他の誰かの言葉でそれは語られるわけですが、そこが読みようによってはボリスが殺したのか殺したと言われているだけなのか曖昧に取れるところなんですが*1、リブレットでははっきり描かれてしまっている。
  • また既にに書きましたが、2幕から狂気が入ってきます。
  • 次に大きな相違はピーメンの役割です。プーシキンのピーメンは2幕の年代記だけの出演です。そして4幕で奇跡を語るのは総主教の役割です。ここは非常に大きな違いです。私にはオペラ版の方のピーメン*2が理解出来ません。年代記を書き、ボリスの皇子殺しを語り、そしてボリス本人の前に出てきて皇子の奇跡を語るって、結構ブラックな人じゃないですか?これが聖職者でなければ義憤に駆られたとか他の目的なのかはともかく普通に有だと思うんですが、これ、やらせちゃ駄目だったんじゃないのかなあ。文句出なかったのかな。とりあえずここを同一人物の行動にしてしまった意図は不明です。単に登場人物が多いと混乱するとか坊さん1人にしといた方が分かりやすいとか、そういうどーでもいい理由なのかしら。
    • まあ、どうでもいい読み方の話をすると、プーシキンの方は、本当にボリスが殺したのか?という疑問に対して、貴族と民衆は当然好き勝手言うし、特にシュイスキーなんて言うことがコロコロ変わるし、ボリスは「みんなワシの所為にしよる!」って拗ねてるだけだし、ピーメンだけが、この人が言うなら本当にそうなのかなって位置付けなんですよ。だけど最後に引っ張り出して思わせぶりな行動させちゃ台無しでしょう。これを同一人物の行動にすることでピーメンの存在が俗化してしまったし、4幕の奇跡は陰謀めいてしまったと思います*3
  • あとは比較的小ネタですが、プーシキン版では偽ドミトリがマリーナにはっきりと自らが僭称者であり脱走僧であることを明かし、マリーナはそれを知って受け入れるくだりがあるのですが、見事にカットされています。ま、これ、その後の伏線になるわけでもなんでもなく、たぶんその後のロシア史を知っている人にとって「やっぱりマリーナはそういう奴だよそうなんだよ」と思わせる効果があるくらいなので*4、オペラ的にはカットしてもおっけーでしょう。

*1:もっとも、この読み方は現代の史実に関する知識を前提としてますので、それが作家の意図したところであったかどうかは保留します。

*2:に作曲家が持たせた役割

*3:それが狙いだったのかもしれませんが、プーシキンを先に読んでしまったので、なんかしっくり来ない。

*4:マリーナは偽ドミトリ1世が死んだ後に現れた偽ドミトリ2世と夫婦生活をし、2世の子を産むという生涯を送ります。